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2011/10/14 03:27
樋口一葉のことなのだが…。
あの5,000円札の肖像画に、どのような経緯で登場したのであろうか。当時、薄倖で貧乏な若い女性を選択せざるを得ない社会的状況があったのだろうか。そういえば1,000円札の野口英世も、どこか貧乏くさくて不幸の影を背負っている。こうなりゃ、10,000円札は石川啄木の肖像、500円玉にはつげ義春の横顔を彫り込もう。日本の硬貨は植物の図案であるが、外国では人物のレリーフが採用されているものもあり、ここらでイメチェンを図るのもいいだろう。
こうして、ビンボーラインナップが完成すると、誰もお金を身につけたくなくなるだろう。懐の財布にしまっておくより、いっそ散財したほうがせいせいする。紙幣はハンカチ落としのハンカチのようなものだ。持っていては禍がかかる。他人に押し付けよう。箪笥預金などしていると座敷わらしのように貧乏神が棲みついてしまう。かくして世の中は内需拡大〜大量消費時代に向かい、日本経済は好転するのだ。
僅かしかない隠し財源を探すふりをしながら、一方で着々と増税の布石を打ちつつある姑息な財務省関係者諸君! ボクのアイディアを採用したまえ。景気は気からやってくるのだ。ビンボーラインナップは国民に喝采で迎えられること間違いなし。影が薄いというか影も見えないような安住淳財務大臣。この大英断で存在感をみせてくれ。
10月4日付、立花隆のエッセイ「樋口一葉の消えた井戸」についてふれなければいけないのであるが面倒になった。写真を撮ったので読んでください(スキャンすれば読みやすいが、それも面倒だ。ププッ)。月刊文藝春秋7月号の巻頭随筆全文。
前々回書いたように、これに対して週刊新潮が「立花隆がおかしい。井戸はある!」といちゃもんをつけたのであった。翌8月号で立花隆は次のように反論した(要約です。あまりナマの写真を貼りつけるのも著作権の関係上気が引けるから…)。
「それは物理的には存在するが一般人が認識できる形では存在しない。かつてそこに至る道案内があり、井戸そのものに公的表示があった。いまはない。すぐ近くの文京区ふるさと歴史館では本郷周辺の史跡地図を配布しており、以前の案内地図には一葉旧居の表示があったが、いまは消されている。歴史館で旧居跡を尋ねたが私有地だから教えられませんとの答えが返ってきた。
そこから700m離れた樋口一葉終焉の地は100%私有地だが、ここには立派な説明パネルがある。その上、平塚らいてう、幸田文らが建てた文学碑がある。さらに付近の住民が作った説明のしおりを入れたブリキ箱があって自由にお持ち下さいとある。これなら文句なしだ」
立花隆が言いたいことはよくわかる。週刊新潮のいつもの手である曲解によるからかいは百も承知だ。それでも「その井戸を含めて、その路地全体がいまや完全に消滅してしまったのだ。そこにそのように路地や井戸があったことを示す説明パネルすらない」と書くのは誤解を招く可能性がある。これでは路地も井戸もブルドーザーで壊され、その跡地に表示すらないと解釈できるではないか。
その後を読めば「公的財産なのに住民の都合で井戸のありかを隠してしまった」(立花は明確に書いてはいないが、まあ、そういうことでしょう)という経緯がなんとなくわかるのであるが…。
一方で、ここに団体のおばちゃん、おじちゃんが入れ替わり立ち替わりやってきて、どこかの素人文学・歴史の先生が解説し始めると、そりゃあ近隣の人たちはうっとおしいだろうなあとも思うわけだ。ボクは連れ合いと、この場所を訪れたが、井戸を挟んだ路地の両側の住宅にはヒトの気配があり立ち止まるのをためらった。写真をさっと撮っただけで、すっと菊坂のほうに抜けたが、グループでの見学ともなるとこの気配りができない。
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エッセイ全文を掲載したのは、別に一葉の井戸の論争?を書きたかったからではないのです。別の意味で「現代のグスコーブドリ」と題された、この巻頭随筆、ちょっと変だ。
蜷川幸雄まで引き合いに出して本郷の路地に長々とふれた上で宮澤賢治に論述を進める。そして賢治の「グスコーブドリ」に話題を無理やり引っ張って「次世代エネルギーとして自然エネルギーである地熱に注目!」と書く。オチは会津の地熱開発技術者は現代のグスコープドリだと?? 長々と書いた路地裏と一葉は、どういう関係があるのだろうか? エッセイのタイトルが示すように原発亡き後の代替エネルギーがテーマなのだから本郷は関係ないだろう。前置きを書きたいのならばせいぜい「宮澤賢治に“グスコープドリの伝記”という短編がある」くらいから始めてくれないかなあ。
それに賢治のグスコーブドリは自然エネルギーを制御することがテーマではなく−したがって立花の会津の研究者をグスコーブドリに例えるオチは少しずれている−科学者としての誠実さ、自己犠牲の精神を扱っていると思うのだが…。
もうひとつの勘違いは、地熱発電は自然の制御ではなく自然との共存なのである。地熱発電で自然をコントロールしようなどという思い上がった科学技術では将来に禍根を残すことになるだろう。
おっと、人のことは言っていられない。だいたいボクが今回の立花隆の手法なのだ。前置きが長くて強引に話を展開させて言いたいことはホンの少し。ヘタをしたら言いたいことも書かない。それで、いままでの長饒舌は一体なんなの?ってタイプだから。ぷぷっ。
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