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袋小路のはぐれ者−susie
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1月28日、品川のホールで開催された奈良県主催の「古事記編纂1300年記念 うたこころものがたり」のイベントに参加。短歌界の大御所岡野弘彦、土方翼に師事した前衛舞踏家田中泯、寺田聰の大ヒット曲「ルビーの指輪」のアレンジャーにして往年のフォーク歌手やまがたすみこの夫である井上鑑(あきら)、そしてコーディネーターは名曲「比叡おろし」の作詞・作曲者である松岡正剛。各氏によるコラボレーション。
なんちゅう肩書の紹介をするんだ! 本人がみたら、きっと怒るだろうなあ。

600人程度収容のこじんまりとした会場は満席。立ち見も。ボクは前から3列目の真ん中やや右側に着席。絶好の位置取り。フォーラムは岡野と松岡の対談から始まる。
弥生後期、文字のない列島に漢字がやってきた。中国語である。数百年かけて漢字(中国語)を音訓に分け、万葉かなを加え日本的表現世界をつくりあげた。それが万葉集であり古事記。ここから母なる国、独自の文化を作り上げる日本人のアイデンティティ、そしてグローバリズムのなかで、いにしえの独自の価値観を失ってしまった日本人…に話は繋がるが、そんな面倒なことはボクは避けていく。その流れの考え方が正しいとは思わないから(以下、続く。2012.1.29午後6時)
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「赤頭巾ちゃん気をつけて」が新潮文庫?

2012/01/30 01:04
凄いものを見つけてしまった。

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庄司薫の「赤頭巾ちゃん気をつけて」が新潮文庫として刊行される。
しかも、白・黒・青を含めた4部作を堂々4カ月連続刊行だと。
このシリーズは中央公論(新)社のドル箱というか殿堂入りともいえる文庫である。
まだ、中公文庫として現役であると思うが…。
もちろん、2社から出版してはいけないというものではない。
しかし、しかし、…
著者と新潮社、著者と中公との間に何があったのだろうか?
週刊文春さん、この謎解きをしてくださいね。よろしく。

うーむ。うーむ。

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「いまさらジロー」という後出し原稿(11月分)

2012/01/24 04:00
↑上の「ブログ紹介」にゲリラ的に書いたものの、まとめである。
これ、新たに書くと前の原稿が消えてしまう。当たり前で、こんなコンセプトでこんなん書いてるよーという、あくまで「ブログの紹介」なのだから。それを「日記」に使う方がおかしいのだ。まあ、いいや。

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源氏鶏太のサラリーマン小説に「東京・丸の内」(角川文庫、1965.6刊、単行本は1962年頃の刊行か?)がある。内 容にふれる時間はないのだが、ボクは小学生の時に単行本で読んだ。あんなことやこんなことがあって大団円を迎える一歩手前。主人公の加部が風邪のため会社を欠勤した恋人・曜子をアパートに見舞い、プロポーズをする。
ふと、机の上に飾ってあるお母さんの写真に目を留める。曜子にそっくりで、ふっくらとして優しそうな人であった。ああ、曜子も歳を重ねるとこういう母親になるのか…と加部は好ましく思うのだ。

連れ合いとの結婚を決め、初めて母親のもとを訪ねた。父親は口が重く堅い石部金吉の性格。酒でも飲んで気持をほぐさなければ真面目な話はできない人(そういう人を堅い人というのか疑問だが…)であったため、まず母親にルートを付けてもらおうという作戦である。
喫茶店に座っている母親をみて、子どもの頃に読んだ源氏鶏太のこの小説が突然浮かんだ。歳を取ると彼女はこうなるのか。悪くないな…。当時、母親は50前であった。もう、連れ合いはその時の母親の歳を10歳以上も越えている。それでも、その時の母親より若いような気がするから不思議なものである(11/16)

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ひとり娘が電話をしてきて「お母さん、いる?」。「出掛けている」と答えると、ちょっと躊躇ったあと「おとうでもいいんだが、ワタシ、子どもができたから…。来年7月が予定日。お母さんに言っておいて」
あらら。ボクは血のつながりが苦手である。連れ合いは他人で同志だからいい。だが、親兄弟、そして娘との距離感が取れないで、ぶっきらぼうの態度を取る。
連れ合いがその態度を不思議がる。なぜ、身内につれないのかと。ボクの自意識過剰か、あるいはどこかに精神的な欠落をかかえているのだろう。その点は深く考えないことにしている。女房に「それでもボク、娘によかったなと言って電話を切ったよ」と話すと「上出来!」と褒めてもらった。
脈々と血が受け継がれる孫との付き合い方を、どうすればいいのかと困惑しているのだが、自分の娘の誕生の時と異なって気楽で何か暖かいものを感じていることも事実である。

斎藤美奈子に「妊娠小説」(ちくま文庫、1997刊)という評論がある。彼女のデビュー作。近現代文学で「妊娠」が重要な位置を占めていることに気付いた彼女が、森鷗外から藤村、慎太郎、春樹まで妊娠小説のしくみを解明していく。彼女の評論はスパッと斬って捨てるわかりやすさにあるので、なるほどなーと感心していたら彼女の術中にはまってしまうのだが、鷗外に関して書いた「舞姫論」など、とてもいい。彼女にかかってしまうと文豪たちは木偶の坊。カタナシである(11/20)。

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うーん。なんだかカラ回りをしている。いま11月30日の午前3時11分。もともと深夜族ではあるのだが寝付くことができない。基本的にあっぱらぱー、楽天的、難しいことは避けて通るという生き方をしている。それでも時々焦燥感にとらわれる。いま現在、難しい人生の岐路に立つようなことを抱えているわけではないんだけどね。どうにも堪らず買い置きが切れてしまっているビールを買うため深夜のコンビニに出掛けた。
そんなことってあるだろー、君たちだって…、

こんな夜はというか夜明け前になってしまったが、柴田翔の「されど われらが日々−」でも読み返そう。ううっ、余計に気が滅入ってくる。
若い頃、親しかった女性MMさんと別れることになり「本1冊貰っていっていいかなー」ときかれて「どうぞ」と答えれば、この本を抜いていってしまった。ああっ、それボク手元に置いておきたいんだけど…とはもちろん言えなかった。
いまもMMさんの書棚に、ボクの形見としてその本があるわけは、、、ないよなー。どう考えても!(11/30)
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震災、原発をめぐって二人の考えたこと(下)

2012/01/16 04:07
もう一度、書いておこう。

「税金をもちいた多額の交付金によって地方議会を切り崩し、地方自治体を財政的に原発に反対できない状態に追いやり、優遇されている電力会社は、他の企業では考えられないような潤沢な宣伝費用を投入することで大マスコミを抱き込み、頻繁に生じている小規模な事故や不具合の発覚を隠蔽して安全宣言を繰りかえし、寄付講座という形でのボス教授の支配の続く大学研究室をまるごと買収し、こうして、地元やマスコミや学界から批判者を排除し翼賛体制を作りあげていったやり方は、原発ファシズムともいうべき様相を呈している」(山本)

こんな雑誌がある。図書館に毎号寄贈され何気なく雑誌棚に飾られ閲覧されている。カラーグラビアを使った豪華な雑誌である。3.11直後の2011年4月号は「風力発電」を取りあげているが、その内実は「お詫び」のとおりである。そして、本年1月号の「特集 原子力への期待と役割を考える」。うーむ。このラインアップ。なかなかやるな、お主。
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こんな雑誌もある。昨年2月号。あいにく暇ではないので中身を読んではいない。
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もう一度、書いておこう。

「原子力産業の基本姿勢は制御と遮蔽である。(以前)東海第二発電所を見学した際、受け取ったパンフレットには『放射線の封じ込め』と題して、5項目からなるその、句読点まで含めて160字ほどの短い文章のなかで、その危険性は『固い』、『丈夫な』、『密封』、『がんじょうな』、『機密性の高い』、『厚い』、『しゃへい』という、言葉の羅列で文字通り封じ込められていたのである。
これは思考の文体ではなく、説明の文でもなく、要するに広告コピーの売り込みの文体である。世の事業の大半はこんな風に安全性を強調しない。飛行機も新幹線も今さら『安全です』とは言わない。何かを隠そうとすればするほどそれが露わになる」(池澤夏樹)

この文章は池澤が今回「春を恨んだりはしない」を書くに当たって、1993年7月刊行の「楽しい終末」(文藝春秋)の一節を自著引用したものである。悲しくも予言してしまった。
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【余談】
新潮社から2007年10月に出版された渡辺眸の写真集に「東大全共闘1968-1969」がある。安田講堂のバリケードのなかに入って、唯一、内部から闘争を撮影することを許されたカメラマンの貴重な撮影記録である。このなかには、こんな有名な写真も含まれている。この写真集に山本義隆は長い寄稿文を寄せている。
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震災、原発をめぐって二人の考えたこと(中)

2012/01/10 22:51
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山本義隆の「福島の原発事故をめぐって−いくつか学び考えたこと」は101頁、しかも頁の上下左右の余白を大きく取っている。有体にいえば、本の体裁を取り繕い、ページ数を増やして厚みを出そうとする姑息な措置。
というのも、もともと月刊「みすず」に何回かに分けて連載する予定であったものを急遽、単行本化したためである。
雑誌を作っていた頃、束(厚み)を出そうと少年マガジンのような紙を使ったこともあったなあ。あの種類の紙は束がでます。商品として本屋の棚に並ぶ際に束がないと貧弱なんです。目立たないしね。

一方の池澤夏樹の「春を恨んだりはしない−震災をめぐって考えたこと」は123頁。写真が多数挿入されており実質100頁程度である。これも緊急出版の形を取ったのだろう。

池澤の「春を恨んだり…」はともかく、山本の「福島の原発…」はボリュームが少ないとはいえ手に取って読み始めるまではドキドキである。小難しい物理理論などで固められたら万事休す。いやあ、わかりやすく書いてくれている。だが、内容が薄いわけではない。僅か100頁であるため、この本一冊、打ち込んでここに紹介したいくらいである。
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原子力に「炉」「燃」と「火へん」を使うな
赤々と燃える「火へん」は自然界のものである


まず、山本は往年の全共闘闘士としての面目躍如の言葉を名刺代わりに置く。
「1952年に雑誌の連載が始まった鉄腕アトムで手塚治虫が、主人公で原子力を動力とするヒューマンな心の持ち主アトムの妹をウランと命名したことが象徴的である」
「日本の原子力開発、原発建設推進は戦後の世界的なパワーポリティクス(いつでも原爆に転用できることを留保する)から生まれたものである。アトムに象徴されるようなマスコミや科学者のノー天気ぶり、原子力の平和利用などと科学技術幻想にとらわれている限り、権力者側からの原子力開発に対して有効に対抗し得ないことはあきらかであろう」
「原発の建設、核燃料サイクルの開発が、このように産業政策の枠を超える外交・安全保障政策の問題として位置づけられているのであれば、経済性収益はもとより技術的安全性さえもが、二の次、三の次の問題となってしまう」

話はマンハッタン計画に及び、短時間で原爆を作り上げることを唯一最大の目標としたプロジェクトは多くの犠牲と多くの問題を未解決に放置して成し遂げられた。その未熟な技術が「平和利用」と称して民間転用されたわけで、もともと極めて未熟で欠陥を有したものであると、原発=軍事と明確に位置付ける。

池澤夏樹が言う。
「原子力産業の基本姿勢は制御と遮蔽である。(以前)東海第二発電所を見学した際、受け取ったパンフレットには『放射線の封じ込め』と題して、5項目からなるその、句読点まで含めて160字ほどの短い文章のなかで、その危険性は『固い』、『丈夫な』、『密封』、『がんじょうな』、『機密性の高い』、『厚い』、『しゃへい』という、言葉の羅列で文字通り封じ込められていたのである。
これは思考の文体ではなく、説明の文でもなく、要するに広告コピーの売り込みの文体である。世の事業の大半はこんな風に安全性を強調しない。飛行機も新幹線も今さら『安全です』とは言わない。何かを隠そうとすればするほどそれが露わになる」

「どうしても無理がある。その無理はこの地球の上で起こっている現象が原子のレベルでの質量とエネルギーに由来しているのに対して、原子力はそのひとつ下の原子核と素粒子に関わるものだというところからきているのだろう」

そして、そのふたつの世界の違いは根源的であって説明しがたい。もっと言えば「原子炉」とか「燃料」という言葉すら的はずれで、実際には「炉」とか「燃」とか「火偏」を使うのすら見当違いなのだという。
うーん、よくわかる。ボクたちが実感する赤々と燃えている「火」ではなく、原子力は実態としてみえない素粒子の世界なのである。

例えていうならばボーイング777LRは160トンの燃料を積んで1万7,000q飛ぶことができる。もしも、これが核燃料で飛ぶとすれば燃料は10グラムで済む。それほどの違いだというのだ。これはもう、自然の摂理で行われているエネルギーのあり方と相い入れないことをボクでも理解できる。

そこが魅力で「原子力の平和利用」を考えたのだろうが、原子力機関車も原子力船も、日本の「むつ」も結局は使いものにならなかった。高速増殖炉だって多額の税金を投じながら、もとめれば求めるほど遠くに逃げていく。
今の段階で運用されているものは潜水艦と空母。つまり安全性の要求が商用よりずっと低い軍事利用ばかりである(万一、事故があっても兵隊は国家としてお国のために殺してもいいからね)。そんなものを民間転用などできっこないのだ。

追いかけて、山本。
榎本聡明という東大工学部原子力工学科を出て東電の副社長と原子力本部長を勤めた人物が2009年の著わした「原子力発電がよくわかる本」には次のように書いてある。
「高レベル放射性廃棄物の地層処分は、地点選定に数十年、さらに処分場の建設から閉鎖までに数十年とかなりの長期間を要する事業であるとともに、処分場閉鎖後、数万年以上というこれまでに経験のない超長期の安全性の確保が求められます。したがって地層処分事業を円滑に実施するためには、事業の意義やその仕組について、各地方自治体や国民に広く理解協力を得る必要があり、理解活動がより一層重要となります」

山本は「正気で書いているのか?」と脳内をめぐっている血がいまにも沸騰しそうな勢いである。ボクだっていいたい。「チバケルナヨー」。いや、ボクは別に岡山県人ではないんだけど…。
屈指の地震国、火山地帯に位置し、活断層が縦横に走り、豊富な地下水系を有するこの日本国内に数万年にわたる超長期の安全性を保証する土地がどこにあるのだ。誰が安全性を確保するのだ。数万年の間には地形すら変わっているだろう。そもそもホモ・サピエンスが誕生したのが3〜4万年前である。喜劇である。
ちなみに「理解活動」とは何のことか。これまでのように「札束」で「理解」させる活動のことか。山本は悶絶死寸前である。

さらに本書の後半で山本は自身の専門分野である物理史の観点から、中世の魔術的文脈で語られていた自然の力に対する恐れが、ケプラー、フック、ニュートンらによって数学的な把握(脱魔術化)へと発展、自然は拷問を掛けて問い詰めれば問い詰めるほど征服できるとの思想が生まれたと論を進める。
同時に近代科学はおのれの力を過信するとともに、自然に対する畏怖の念を忘れていったのである。それが原発である。
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ふたりの言うことは「原子力は自然の摂理に反している」ということであろう。人間は自然世界の虎の尾を踏んでしまったのだろうとボクは思う。

「核エネルギーは原理的なところで手に負えないのだ。それを無理に使おうとするからウソで固めなければならなくなる。まずは自分たちを欺いて安全だと信じ込もうとする。そこに科学的根拠はない。他の国の他の会社が運営していても、いつか違う種類の、しかし同じように恐ろしい事故がおこるだろう」(池澤)

池澤は何も声高に東電や政府や原発推進の科学者・技術者を批判しているわけではない。震災の地に何度も足を運び、多くの遺体が打ち上げられている浜辺を眺め、話を聞き、震災と原発の全体像を把握しようとしている。そして、古来より天災が多かった日本列島の風土に考えは巡り、そこに無常だとか諦観、あの時の空気はそうだった…という無責任な思想をも垣間見る。
この構図を現実として一たん受け入れよう。しかし、その先に希望はあるか?
池澤は「人々の心のなかで変化が起こっている。うすうすと感じ始めている」と明日への希望をつなぐ。

それほど軍事的優位を保ちたいのであれば、レーザー光線でも火炎放射器でもいいから、核と関係のないところで殺人兵器の開発競争をしてくれ。

「税金をもちいた多額の交付金によって地方議会を切り崩し、地方自治体を財政的に原発に反対できない状態に追いやり、優遇されている電力会社は、他の企業では考えられないような潤沢な宣伝費用を投入することで大マスコミを抱き込み、頻繁に生じている小規模な事故や不具合の発覚を隠蔽して安全宣言を繰りかえし、寄付講座という形でのボス教授の支配の続く大学研究室をまるごと買収し、こうして、地元やマスコミや学界から批判者を排除し翼賛体制を作りあげていったやり方は、原発ファシズムともいうべき様相を呈している」(山本)

政治家を巻き込んで無辜の民を騙して力づくで押し込めて自分たちの利益を追求したいのならば、核と関係のないエネルギーで騙してくれ(すでに、やろうとしているのだろうが…)。ボクたち無知の人間が、この先数万年まで逃げ惑うような誰も責任の持てないアイテムを利用することはやめてくれ。

この震災以降、多くの人の原発論を聞き、読みもしたが、ボクは池澤の主張が一番、身体のなかに入ってくる。
「核は原理的なところで人間の手に負えないのだ」
その一言でいいではないか。彼を信じる。決して、あの春を恨んだりはしない。人々の心のなかで変化が起こっているのだから。
即刻、原発から撤退すべきである(次回、堂々の完結!)

【余談】

原稿は「難しいのはダメ、小学生でも笑える記事にしろ」との注文が付いている。
難しくはない筈で(難しいことは元々書けない)、もし難しそうに見えるのならば、それはボクの理解不足か書き方がまずいのである。とはいっても、そこはそれ。小学生が笑える記事を書かなくっちゃ!とお茶目ぶりを発揮したいボクなのである。

山本義隆の書を読むにあたって、手ごわそうでメモを取りながら読んだ。あーあっ、あかんわ。 ガリレオ、フランシス・ベーコンと書いたら、後は頭に入らなくて要点のメモすら取れない。くそっー。ぷぷっ。それに、この筆跡はなんだ? 子どもが泣いて喜ぶボクの文字。よく、こんな写真を撮って残していたなあ。
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友人の新婚旅行疑惑で場内騒然

2011/11/16 07:56
60回目の11月1日を迎えても、この時分の気候がどうであったのかトンと覚えちゃいないのだが、痩身の身として暖かいことが喜びである。今日も走る。コンディションがことのほか良かったため記録更新を狙ってひたすら5m先の地面をみながら走ったが、途中計測ラップで記録は難しいと判断した。諦めて見上げた空いっぱいにスジ雲。もう少し頑張ってみよう。45分47秒。更新に4秒足りなかった。
岐阜に放射能に汚染された水を飲むパフォーマンスをするバカがいれば、栃木に「ノー・ズロース」と発言する国家公安委員長がいる。この男の義父は国民的作家山岡荘八である。北に放射能を移すぞとふざけるアホがいて、南では玄海原発が再稼働するという。この国はいつから、こんなデタラメな国になったのか? もともと、そういう国であって、現在マグマが吹き出るように表面化しているだけなのだろう。

池澤夏樹著「春を恨んだりはしない−震災をめぐって考えたこと」(中央公論新社、2011.9刊)。いやあ、いいです。読みたまえ。知らせたまえ。山本義隆著「福島の原発事故をめぐって−いくつか学び考えたこと」(みすず書房、2011.8刊)と合わせて近々更新予定。 彼らのやむにやまれず書かざるを得ない心情を誰が受け止める!(11/2)
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チヌの海さんが現在、フランスに新婚旅行に行っている。刻々と様子が伝わってくるのだが、これがおかしい。「朝、ホテル近くのパン屋に出かけてクロワッサンを買った。おいしい」とか、「ルーブル、オルセー美術館を満喫。マネ、モネ、セザンヌ、ルノワール…、ロートレックのムーランルージュ。芸術にひたる秋」などと報告はある。しかし、写真が一枚も添付されていないのだ。
もしかして日本にいるのではないか? 成田離婚の疑惑がすでに持ち上がって場内騒然。場内ってどこだ? でも、よく考えれば成田離婚とは海外での夫の対応能力のまずさに妻が呆れて帰国後、成田で「はい、さようなら」という話である。もともと、チヌの海さんの海外での対応能力など誰も期待していないし最初から新婦に頼りきりなのだから、それはない! だとすると海外に飛び立つ前に離婚となったのか?
おいおい、キオスクで買ったフランスの絵葉書なんか送ってくるなよ。消印でばれてしまうよ(11/4)

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枝野幸男経済産業大臣が語る。「持っている技術について海外の評価に応えるのは、むしろ国際的な責任」「原子力にプラス面とリスクがあるが、リスクをどの程度重視するかは国によって違う。地震や津波がない国もあるが、日本は圧倒的に原子力を使うには適さない」「技術を国内で使わなくなるかもしれないが、海外が評価するなら、それに応えることは矛盾ではない」 むちゃくちゃである。地震や津波が問題ではない。原発技術そのものがダメなのだ。この期に及んでまだ原子力産業を擁護するのか。例え言い逃れや嘘でも、まだ自民党の方がうまかった。曖昧にする技術があった。民主党が自民党の域に達するのはまだまだ先だ。まっ、せいぜい頑張ってくれい。
酒量が増えている。枝野経済産業相のせいではない。増えるといっても限度を過ぎると寝るか吐くかどちらかだから、それ以上は飲めない。もともと量は飲めないし。限度の手前でとめていたのが限度いっぱいまで飲んでいるだけだ。毎日毎夜がお花畑。自宅で飲む方が好きだが外でも機会があれば遠慮なく飲む。飲ませるとどこまでも飲む酒豪が「自宅では全く飲まない、それで何の不都合もない」というのがわからない。単にボクがアルコール依存症であるのだろう(11/6)

チヌの海さん、新婚旅行の続き。今日はパリのオランジェリー美術館でモネの睡蓮を見たとの発信。オランジェリー美術館?とネット検索をすれば、なんと「オランジュリー美術館」の間違い。命名はもともと宮殿のオレンジ温室(オランジュリー)だったことに因るとのこと。さて単なる表記のタイプミスか確信犯的にしゃれたものかで場内騒然。真相はミスでも洒落でもなく彼の妄想の発露であろう。「睡蓮」など観賞していないはずだ。秘宝館が立地するような怪しげな場所をうろついて、ランジェリーの歴史を学びランジェリーの珍品を眺めていたのだろうという専らの噂。ますます成田離婚が近づいてきた。帰国後の見聞録が楽しみである。

同じ見聞録でも俳人・詩人である加藤郁乎著「後方見聞録」(親本は1976年刊、2001.10に学研M文庫入り)は稲垣足穂、西脇順三郎、池田満寿夫、白石かずこ、田村隆一、澁澤龍彦ら何やら異端、怪しげな人々と著者の交友回想録。文庫入りに際して加藤は友人澁澤の妻との一夜の不倫(澁澤が酔いつぶれているその夫の前で…)を告白した「矢田澄子の巻」を書きおろして増補。物議をかもした。(11/8)
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午前3時に目が覚める。この秋、一番の冷え込みか。寒い。11月6日付で書きはじめた「震災、原発をめぐって二人の考えたこと」の続きは次回で。とりあえず、近況飛び録を入れておこう。どうも、やることがチグハグである(11/16)。
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震災、原発をめぐって二人の考えたこと(上)

2011/11/06 20:11
2003年のことである。山本義隆の「磁力と重力の発見」(みすず書房)を書店でみかけた。著者名を見たとき「まさか、あの山本義隆ではないよな。どこにでもある名前だし…」と思いながら、ぼんやりと著者略歴を追っていると、そのまさかだったのだ。30年振りにその消息を知って驚愕した。
東京大学大学院博士課程中退、専攻は物理学、東大全共闘議長。
1960年代後期から続いた東大紛争の立役者である。安田講堂攻防戦の前に指名手配、潜伏生活に入るが逮捕覚悟で大きな全共闘会議に出席、その後東大を去る。フリーターを経て現在は駿河予備校の講師。

同書は「近代の科学技術はなぜ西欧に誕生したのか。古代ギリシャに始まり中世、ルネッサンスを経て17世紀後半にニュートンが万有引力を発見するまでを追った」もので全3巻の大著。特徴は常に一般読者を念頭においた叙述であり、丁寧な引用を行い参考文献なしでも読み進めることができるとのことだ。それにしても、ボクの日常にはかすりもしない書物である。何を血迷ったか懐かしさのあまり思わず買ってしまったけど…。ぷぷっ。

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略歴をみるとボクが消息を知らなかっただけで、それまでにも着々と物理学の著作や訳書を積み上げている。
東大中退後、仕事の激務をぬって古本屋を回り、ラテン語を勉強し、多彩な学術分野の翻訳を参照した。これだけで資料が賄えるわけではなく、多くの友人、予備校の教え子たちが外国の大学から資料のコピーを続々と送ってきた。その結果が「磁力と重力の発見」の第1回パピルス賞、第57回毎日出版文化賞、第30回大佛次郎賞受賞である。

東大紛争を含む各地の大学紛争の歴史的意義・価値などないに等しいであろう。
意義や価値はないが負の部分は少なくない。その最大のものが「山本義隆が東大に残れなかったこと」とまでいう評論家すらいる。それほど研究者としての能力、組織運営の卓越さ、そして人格が優れていたのだろう。

池澤夏樹は1988年、「スティルライフ」で芥川賞受賞。彼の小説は一冊も読んでいないがエッセイはよく読む。初めて彼の著作にふれたのが、週刊朝日に1993年初めから98年末まで連載していた6年分のエッセイを3冊の文庫にまとめた「むくどり通信」(朝日文庫)である。

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6年間の身辺雑記だから、通読すると時間の経過とともに池澤の生活や心境の変化が手にとるように分かってくる。何よりも物事に誠実に・真摯に対応しようとする心が一層強まっているし、後半は沖縄に居を構えたことから、都会的なものから自然に関する話題が多くなってきた。
さらには、徐々に沖縄の政治状況を巡る話が中心になってくる。

当時の沖縄は、象のオリを巡る攻防、普天間飛行場移転、米兵の相次ぐ犯罪、沖縄知事選による大田昌秀知事の敗北と稲嶺氏の勝利…、と大きく揺れ動いていた。「(こういう話が)好きなわけではなかった。見るにみかねてしかたなく書いたのだ」と、池澤はいう。

たしかに彼はのぼる朝日の美しさ、ベランダにやってくる野鳥、白山に登った、山の友だちと遊んだ、センダングサが衣服にくっつく構造を顕微鏡で仔細に眺めたらマジックテープそのものだったと書いているほうが似つかわしい。
それでも「見るに見かねて」沖縄の政治状況に触れざるを得なかったのだ。その後、彼は米国の同時多発テロへもコミットしていく。
池澤が何かを経験して何かを学び、静かだが深く考えていくという過程が魅力的。決して爆発することはない。しかし闘いへの闘志をしっかりと胸に秘めている彼の姿勢がいい。

そんな二人が「春を恨んだりはしない−震災をめぐって考えたこと」(池澤夏樹、中央公論新社、2011.9刊)、「福島の原発事故をめぐって−いくつか学び考えたこと」(山本義隆、みすず書房、2011.8刊)を著した。

山本は先にふれたように東大で物理学を専攻、一方の池澤は埼玉大学理工学部物理学科中退である。なんだ、池澤もまっとうに大学を卒業していなかったのか。いずれも物理学を学んでいるが、山本のその後の研究は科学史がフィールドであり、池澤は作家である。二人とも直接的な原発の専門家ではない。もっとも原発の専門家であれば、いわゆる原発村=巨大帝国に組み込まれる可能性も強く、ここで反原発の主張などしていなかったかもしれない。ぷぷっ。

ふたりの言いたいことは共通している。ただひとつ。
「原発は人間の手に負えない。関わるべきではない。即刻撤退すべきだ」                                 (この項、以前に書いたメルマガを再構成、次回に続く)

【余談】
ホント、ネットって便利です。池澤夏樹のプロフィールを確認しようと調べたら奥さんのことにふれてある。リンク先に飛んでみると、うーん、さすがの女性。
ここだよ。
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ひたすら歩いたり走ったり

2011/11/01 23:42
「私の東京地図」@
絶版となっていた講談社文芸文庫「私の東京地図」が復刊。著者は佐多稲子。いつの時代のヒトやねん。既読ではあるのだが手元に置いておきたい本。古書市場にもほとんど現われなかった。文芸文庫は良心的だけど値が張る。280頁で1,470円…仕方がナイル河。
10月1日に、立川から多摩川沿いに大田区・下丸子のガス橋まで歩く。33q+自宅まで3qの36qをぶっとおしで歩く。ひたすら歩く。秋とはいえ日射し強く♪鼻の頭まで皮がむけて…(10/6)
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「私の東京地図」A
復刊というより全くの新版である。旧版が中山和子(文芸文庫の会)による「作家案内」および奥野健男の解説を入れているのに対して、新版は川本三郎の解説と「佐多稲子研究会」による詳細な年譜で構成されている。よくみると「講談社文芸文庫スタンダード」という新しいレーベルのようだ。「スタンダード」は『時代の原基としての存在感をたたえ、今なお輝きを放つ作品を精選した新装版』ということだが、もともと文芸文庫は少々値は張るが、名作を丁寧に文庫化して版を切らさないよう長く地道に売っていくといったコンセプトで立ち上げられたものだった。これでは屋上屋を重ねるようなもの。
ウィスキーグラスの外側に水滴がついてテーブルをぬらすためコースターが手放せなかったがホンの少し曇る程度で水滴を形成するまでには至らない。昨日の最低気温18.1度、湿度23%。ようよう秋本番を迎える(10/8)
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(旧版)

「私の東京地図」B
佐多稲子は東京案内を書いているわけではない。ワタクシの心象を、当時の東京の風景のなかに映しだしている。その時々の東京の風景のなかを佐多稲子が歩いている。後半。佐多稲子の軍部との闘いは緊迫したものになってくる。ヘタをすると生きては帰れないことだってあるのだ。権力に対する抗議活動は1960年代末の機動隊にサンドウィッチにされた学生デモ、70年代初頭のベ平連による地面に倒れ込んで青空をみるダイ・インなどとは質が違う。
最終章。佐多は報道班として中支に送られる。「どうしよう? どんなふうに書く?」 「戦争を賛美しなければいいよ」と夫がいう。その可能の限度を計るように目を据えた。同時に佐多には戦争の地へゆくということで、隣近所への気兼ねが消えるようにおもうものも湧いてくるのだった。
コミュニティのバーベキュー大会のリハーサル。やきそば、スペアリブ、ステーキ、とうもろこし…。焼いて食べて進行の問題点を確認する。リハーサルといえは麦酒がないのは…としつこく言うと、役員二人がコンビニに走った。いい男たちだ(10/9)
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「私の東京地図」C
佐多は佐賀中学5年生(18歳)と佐賀高女1年(15歳)の男女を父母として長崎市に生まれる。父母の実家は格式のある家柄であり、いってみれば不良の不純交際によって生を得たようなものである。母は佐多が小学1年生の時に結核で死亡、父は放蕩して一家を傾ける。貧困のなかで佐多11歳のときに上京。向島に居を構える。生活の糧として佐多は小学校を中退してキャラメル工場に勤めるが、ここから東京での佐多の転変が始まるのである(「版画」の章、向島)。
いかん!、これは長くなりそうである。ブログのトップにスポット的に短く、書き切れなかった書物を紹介、あわせて近況を…と考えたのだが、本の紹介も近況も長くなりそうで苦慮・苦戦している。こんなことなら、地道に本文にまとめてUPすればよかった。
しばらく見なかった知人に会ったので軽く手を挙げて挨拶。見送った後、その後ろ姿が激痩せしていることに気付いた。呼び止めて「どうしたんだ」と訊ねると携帯電話を開く。覗き込むと「私は食道がんと喉頭がんの手術をしました。声が出ません。筆談をお許しください」との文字。あああっ。5年ほど前に胃を摘出したが再発か? 矢継ぎ早に質問するが、そうか、声が出ないのだ。後で奥さんに経緯を聞くからと言って別れた。彼はさびしそうな笑顔を浮かべて「了解」というポーズを取った(10/17)


「私の東京地図」D
日本橋丸善の化粧品売り場に勤務していた。佐多はここで関東大震災を経験する。2階の洋書売り場から降りてきた大杉栄を目撃する。
「秋も10月の終りなので、5時という時間には街は夜に入っていて、すれちがう人の顔も見分けられないが、宵闇はどこかに夕べの余映を残しているとみえて、街灯の電気がまだ光を十分に出し切っていない。そのために一層この時間にはあたりが暗くおもわれる。人の営みは、ことにこの辺りでは時間で整理されているので、この時刻どおりの雑閙を呈している。木煉瓦の舗装道路に、靴音や下駄の音が此処では日和下駄の朴歯のきしる音で流れていく。人の姿はみんな一様に、屈折した灯りの中に墨絵のように黒く浮いて動いていく。市内電車だけが…」
いま読み返しているのだが、プロレタリア作家うんぬんの前に文章が美しい。哀しくてこまやかで的確で、この当時の東京にすっーといざなってくれる。
「コティの化粧品はこの時分から流行り出した。私は大分仕事に慣れて来て、値段調べに三越や白木屋へゆくことがある。三越はもうその頃には下足をつけていなかった。私は上草履にしているフェルトの草履で出かける。仕事の用事で日本橋を歩いてゆく私は、少し気負って足早に歩く」(「晩歌」の章、日本橋)
最後のセンテンスなどいいなあ。仕事の用事で日本橋を歩いてゆく私は、少し気負って足早に歩く(10/20)
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(新装版)

「私の東京地図」E
丸善での働きぶりが上司の目にとまった。彼の薦めで慶応大学出の資産家の男と結婚する。いってみれば玉の輿である。しかし、夫の弱い性格は家の財産をめぐる人間どおしの醜さと係争によってますます意志を失い、夫婦のいとなみも愛情と憎悪で嗜虐的なものとなってしまい、佐多は自殺を繰り返して破局に至る(「坂」の章、牛込神楽坂、および「曲り角」の章、目黒界隈)。
佐多の人生の岐路がそこここにあるのだが、佐多は多くはふれない。次の章では新しい街で新しい仕事をしている。プロレタリアは働かなくちゃ生きていけないのだ。岐路の部分の経緯が飛んでいるため、つながりがわかりにくいのであるが(それは解説や佐多の年譜で補うとして)、あいかわらず住んでいる、生活している街の描写がこまやかで、ああ、この時代のこの街はこうであったのだなあと大げさにいえば感動するのである。
22日、26〜27日、28日、29日、11月3日と関係する団体、委員会などの会議、イベントが入っている。どれもどうってことではないのだが、確実にその日の決められた時間が予約されているわけで、どうしてもその前後の時間に制約があって気ままな人間はそれがプレッシャーなのだ。なにしろ、ボクはもう10数年前に腕時計を棄て、その後一度も腕にとおしていないのだから…。(10/21)

「私の東京地図」そのF
とくにプロレタリア文学に興味があるわけではない。小林多喜二の「蟹工船」すら読んでいない。佐多の著書ではもうプロレタリア文学とは言わなくなった戦後に書かれた本書と、中野重治を見送った「夏の栞」、名作といわれる「時に佇つ」を読んでいるだけ。ああ、そうだ。プロレタリア文学では葉山嘉樹の「セメント樽の中の手紙」が面白かった。一読の価値あり。
「私の東京地図」の最終章「道」(高田馬場、戸塚周辺)で、佐多は虐殺された小林多喜二の凄惨な遺体に宮本百合子らと対面する。小林家に集まった者たちは片っ端から警察に引っ張られて葬儀にも加わることはできなかった。時局への抵抗は一挙に緊迫化するが、同時に弾圧強化のなかで転向が相次ぎマルクス主義的文学は崩壊を迎えるターニングポイントでもあった。
…ということは置いておいて、ひたすら走っている。月間20日は8qから10qを走る。以前は歩いている連中しか追い抜けなかったが、いまではヨタヨタ走っている女の子やおばさん、ゆっくりマイペースで走っている年寄りを抜いていく快感。一方でヒタヒタと足音が近くなって、さっとボクをかわしていく若い子たち。その後ろ姿がみるみる小さくなっていって、それを見送りながら走ることも、また楽しいのである(10/26)

「私の東京地図」そのG 【了】にしました。
大正4年(1915)、11歳の時から昭和20年(1945)、敗戦、41歳までの30年間が12の短編となって編年で綴られている。主題とは別に、どこかにほんのりと色っぽさを感じさせるのは街と自分の距離感を現わした佐多の腕だと思う。
街のなかに自分を歩かせて客観的にみているのが「私の東京地図」であれば、1976年に刊行された「時に佇つ」は私が主体である。同じく12の短編の連作形式を取って「私の東京地図」と対をなしているものといえよう。
この時の佐多稲子はすでに70歳を越えている。当時は内ゲバ−セクト間の対立が深刻な時期であった。佐多は抗争を終わらせる道を探るためのグループに関与していた。このグループへのセクトからの硬、軟、柔の干渉があって「私もまた、深夜の仕事の机の前で、片手にペンを持ったまま、一方ではその干渉の重苦しい声に応答する、ということもつづいた」と文庫本のあとがきに書いている。
うれしいことに生ビール3杯とつまみのフランクフルトソーセージサラダをごちそうになった。発泡ビールしか飲んでいないボクは天に昇る心地である。食事前の自宅に連絡もせず飲んでいたので帰宅すると怒られた。
「今日はかき揚げといったじゃない。冷めたかき揚げがおいしいか!?」(10/29)

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絲山秋子に言われるまでもなく。

2011/10/30 01:03
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ああ、ばかばかしいったらありゃしない。
ブログのアタマで近況報告をしようと目論んだが、結局のところ、長々と8回にわたって佐多稲子の「私の東京地図」を書いてしまった。近況報告と合わせたら相当のボリュームになる。
「キミのは長い!」という不評に応えて短くしようという意図のもとに始めたのであるが、計画性のない男のやることである。書き始めたら、いつまででも書くのである。

「なんだ、連載をはじめたのか? 過去のものは読んでいないから、まとめてUpしろ」という有難い、たった一人の要請がメールで、きている。もとより、そのつもりである。そのつもりではあるが、これUpしたら、その長さにますます顰蹙を買うだろう。

読んでみると、ボク個人の備忘録になっていて、人のことより自分のために面白い。近々、収録する。その日のいきあたりばったりに書いたことであり、また「私の東京地図」「時に佇つ」ともに、ずいぶん過去に読んだもの。パラパラとはめくるものの全容を把握・確認することができず、大部分は解説やら佐多自身のあとがきやら年譜などを思い切り利用している。感想ではなく名作の紹介であるからあしからず。

とにかく、ボクは大馬鹿者である。
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北杜夫さんが逝った

2011/10/26 15:31
天気予報は今日から寒くなると伝えていたが、大ボケをかましてくれた。シャツの上に一枚羽織って太陽の光に身をさらしていると汗ばむくらいの陽気である。湿度は低く、朝に洗濯したシャツやズボンは午後を過ぎるともう乾いてしまっている。そんな爽やかな秋の日に北杜夫さんが逝った。享年84。

中学、高校時代からあんなにお世話になった北杜夫の作品であるが、いま、彼の著作を探してみたら、あきれるほど保有していない。「ドクトルまんぼう航海記」などのユーモア小説の一群、「さびしい王様」シリーズ、収拾がつかないくらいハチャメチャの「まんぼう・マブセ」シリーズの対談集、芥川賞受賞作のナチスへの抵抗を書いた「夜と霧の隅で」、新潮社純文学書きおろし特別作品シリーズの「白きたおやかな峰」、怪盗ジバコもあったなあ…。何十冊と読んでいるのであるが見事に処分してしまっている。

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ここに4冊の著書をあげたが、これとて特に座右の書にしようと大切に保管していたものではない。保有していることに意味があるわけではなく、たまたま何となく残っているのである。「幽霊」は彼の処女作か? 埴谷との対談は破壊力があった。「船乗りクプクプ」は、まだ娘が幼いころにせがまれて、連れ合いがほとんど毎晩といってよいほど、読んで聞かせてやっていたものだ。娘がコロコロと笑っていた。

つい、先日も小林信彦の「日本橋バビロン」を読んでいて、小林が北杜夫にふれていた部分に遭遇したのである。小林は「楡家の人々」を、日本では珍しい大河小説だと高く評価していたのであるが(この本は三島由紀夫も評価していた)、評論家が父・茂吉との葛藤が描かれていないと難癖を付けた。
小林は「この大河小説のなかに茂吉との葛藤を織り込むと収拾がつかなくなる、それはまた別のところでお書きになるのでしょう」と反論し、事実、その後、北は岩波書店から「茂吉」4部作を刊行した。一作、一作で評価されたら作家はたまらない。もう少し長い目で作家全体の仕事としてとらえなければ…というのが小林の言い分。

ユーモア小説も純文学も対談集もエッセイも、どれも面白かった。トーマス・マンの影響かどうなのかは知らないのであるが(ボクは北杜夫に感化されて「魔の山」を読み始めたが100頁くらいで断念、「トニオ・クレーゲル」も読み切れなかったから)、躁鬱やギャンブルや阪神タイガース狂や、作家たちとの交友やら、私生活を売りながらも、どこか西洋風のカラッとしたところがあって好ましかった。

ボクのブログでも折にふれて北杜夫のことを書いたはずだが、自分が書いたことなのに、何をどこに書いたかもわからない。「袋小路のはぐれ者」「北杜夫」で検索を掛けて引っ張り出すという体たらく。大したことは書いていないわ。ぷぷっ。

ここでは、小池光が「天下の奇書」と途方にくれた「マンボウ雑学記」の目次〜章建てを掲げて北杜夫を送ろう。

こちらへ飛びます
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何度みても、この章建ては圧巻である。けったいである。笑わずにはいられない。
くすくす、含み笑いをするように北杜夫さんを見送ることが一番いいような気がするのだ。
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進化する日本語

2011/10/23 18:09
【後から追加】朝日10月25日付朝刊  ねっ! やはり気になる。
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新聞・雑誌を読んでもテレビをみても、といってもテレビはニュースくらいしかみないが…、気になる言葉が氾濫している。

最近、気になっているのがテレビでの「こちら」という言葉の多用。アナウンサーが画面やパネルボードを手の平で示して「こちら」を乱発する。画面をみているのだから言わなくてもわかる。
ニュース冒頭の大見出し?リード部分?で大きなニュースの項目を挙げながら「その真相とは。」「その理由とは。」と後に期待を持たすように「とは。」で打ち切ってしまう。これも言う必要がない。言わなくたって、次に真相の解説をすることは視聴者にわかりきっているのだから。民放ではなくNHKの7時のニュースの話である。
前の文章を受けて、いきなり「なので〜〜」もテレビ、紙媒体などで流行している。舌足らずの「なので」などという言い方をしないで、昔のように「ですから」「だから」「そうなので」ではいけないのか? 政治家等が連発多用する「しっかりと」は全く実態がなく不愉快である。

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「こちら」新聞記事。お姉ちゃんがきれいだからスキャンして貼り付けたわけではありません。本文記事は、すべて「女性」と書いてある。「なので」見出しは「女性も自転車」とすれば済むことであるが、見出しだけは「しっかりと」「女子も自転車」と書きかえられている。
「その真相とは。」 ボクにゃ、わかりません。(そんなものがまだあるのだとすれば)クオリティペーパーのやることかよ。巷では「男子」「女子」という言葉が流行っているようであるが、男性・女性でなぜいけないのか? 小学校の体育の授業じゃあるまいしぃ。

いらいらする言葉遣いは多々あるのだが、いちいち例をあげると偏屈じいさんと敬遠される。だいいち、じゃあテメエの書く言葉遣いはどうなのだと、ボクに火の粉が飛んでくるのでほどほどにします。

小林信彦「気になる日本語−本音を申せば」(文芸春秋、2011.5発行)は週刊文春の連載エッセイをまとめたものである。このシリーズ、本書で実に13冊目。全編、気になる日本語について口うるさく述べているわけではなく、同書に関しては、たまたま気になる日本語に言及したエッセイの回数が多かったため、それをタイトルに流用しただけのことである。

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ボクは、小林の芸人評、内外の映画評、政治・社会評を信頼しているので、新刊が刊行されるのを心待ちにしている。御歳79歳になろうとしている小林。映画や芸人については古い人や古い映画だけでなく、いまの若い人たちにも鋭い目配りをしているところがすごい。一方で苦虫を噛みつぶしたようなことを書きながら、基本的にはミーチャンハーチャン、オタクなのだ。そのギャップが面白い。
本書に登場する女子タレント(もういいって!)をあげても、長澤まさみ、水川あさみ(ボク、名前も顔も知りません)、綾瀬はるか(しらんって!)、堀北真希、仲里依紗(ナカザトイリサ?わからん名前を出すなって)、福田沙紀(何者だ)、貫地谷しほり…などなど。じさまは若い娘たちに結構、エールを送っているのです。

そうそう。この「気になる日本語」でも軽くふれているが、ボクは小林先生から「生きざま」という言葉の不当性を教わりました。かつて小林は「生きざま」についてガンガン批判していた。本来、「ざま」は死にざま、ざまあみろ、そのざまはなんだ!、ぶざま、というように悪い方につかわれる言葉である。「死にざま」はあったが「生きざま」という言葉は昔はなかったのである。
変にヒロイックな、ええかっこしいでつかわれる「生きざま」が恥ずかしいというのが小林の趣旨であるが、同書では「念のため、新明解国語辞典を見ると<いきざま>があったから、たぶん流行語を入れるようにしているのだろう」と半ば時代の趨勢とあきらめつつ、それでも往生際悪く、流行語と貶めて自分を慰めている。ぷぷっ。
この言葉は小林のいうとおりだと思う。ボクは先生のお教えどおり「生きざま」という言葉はつかわないよう自戒している。恥ずかしいよね。飲み屋でオレの生きざまを見てくれ!って臆面もなく気負っていうヤツ。こちらが赤面してしまう。

小林にならって、いま、ためしに電子辞書「広辞苑第6版」で「いきざま」を引いてみた。(死に様の類推から生まれた語)自分の過ごして来たぶざまな生き方。転じて、人の生き方。「すさまじい−」
さすがです。類推と断った上で、ぶざまな生き方とポイントを押さえている。そのあとの「転じて人の生き方」が、いま流行している「いきざま」の定義なのだ。いわく、坂本龍馬の生きざま、松田優作の生きざま、矢沢永吉の生きざま…。違うって! そんなかっこいい男たちの生き方につかっちゃいけないんだよ。キミたち。

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同じく、小林信彦の本をもう一冊。
「日本橋バビロン」(文芸春秋、2007.9刊)
これは「東京少年」(新潮社文庫2008.8刊、単行本は2005.10刊)、本書「日本橋バビロン」、「流される」(文芸春秋、2011.9刊)の自伝的三部作の一冊である。最終巻「流される」が最近発売になったため、4年間積んだままにしていた「日本橋バビロン」を慌てて読んだ。どうせ今頃、読むのだったら経費節減のために文庫でいいのだった。

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舞台は両国橋をはさんだ(かつての両国)いまの東日本橋。老舗の和菓子屋「立花屋」の栄枯盛衰。小林にとって祖父にあたる八代目は婿養子で他の和菓子屋の一介の職人であった。入籍はしたものの戸主ではない。妻との間に夫婦の関係はなく手をふれることも許されなかった。新妻は後見人と一緒に2階で就寝、夫は職人部屋の隣の3畳間に一人で寝起きした。後見人たちが夫の腕を認めるまでの、いわば試用期間である。当時の職人の世界、風習ってそんなものなのか?
晴れて八代目を継承?した祖父は職人気質の立派な人であったと誰もがいうが、その後を継いだ九代目−小林の父はオースティンを自ら運転する機械好きで自動車修理工場の経営が夢であった。映画、演劇、演芸に凝り、小林信彦の素養はこの父の趣味によって養われていくのだが、こんな父であるから老舗の和菓子屋経営には不適格であった。それがため、小林は10代目になりそこねてしまう。もっとも本人は望んでもいなかったが…。

小林は大正、昭和の東日本橋界隈の移り変わりと立花屋の盛衰を丁寧に描いていく。時代は一気に飛んで最終章で小林は数十年振りに立花屋のあった場所を訪ねる。近所に住む婦人から小説のような話を聞く。小説の結末を締めくくるための、おあつらえ向きの嘘のようなホントの話(小林さん、フィクションをでっちあげたのではないですか? ぷぷっ)が用意されていたとは。
「とは。」で打ち切っても、ボクはその真相も理由も書きません。
7時のニュースとは違いますから。

「流される」はまだ未購入。早く買わなくっちゃ。
そして、文庫本が出る頃に読もう。
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虹が滅ぶように…PART2 小谷正一伝説

2011/10/17 00:46
「石津は大学時代に松平長七郎のニックネームでとおり、遊び呆けていたというが、実にうまいあだ名である。白い細おもて、眉も鼻すじもすっきりと細く、目も細くて澄んでいる。ひげは無いというほどに薄い。ちょっとうつむくと、白い額に長いやわらかい髪がかかり、それをかきあげる細身の指には金の指輪がはまっている。
ところが社内野球のときにピッチャーを買って出ると、折れそうな細い腕から凄いスピードボールが飛び出すし、マージャンをやらせると、不敵でにぎやかで度胸がいい。そのようにやさ男のくせに冷徹で大胆で、ヤクザっぽいところがあった」

ちょいと吉行淳之介を思わせる。
ファッションも隙がなく声がほそくてやさしいので繊細で女性的な印象をも与える、この男が今回の主人公。足立巻一は「夕刊流星号」で彼−石津(小説上の仮名)を上記のように表現した。ボクが以前取り上げた「夕刊流星号」は こちら。

早瀬圭一のノンフィクション「無理難題『プロデュース』します−小谷正一伝説」(岩波書店、2011.8発行、2,205円)は彼、石津の本名である小谷正一(1912-1992年)の伝記である。足立巻一にとって石津−小谷は、夕刊流星号−夕刊紙「新大阪」時代の上司にあたる。

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ううっ、どうしても撮影した書影が貼り付けられない。ネットから拝借。

早稲田から大阪毎日新聞社に入社、本人は社会部配属を希望したが事業部に回された。しかし、ここで才能を開花させる。彼の才能とは「新規事業の立ち上げ屋」であり「呼び屋」であり、新人の才能発掘であり、それらを含めたプロデュースの能力であった。奇しくも小谷と相前後して大阪毎日に入社、文化・文芸担当として頭角を現した井上靖の芥川賞受賞作「闘牛」の主人公のモデルとなった男でもある。

小谷は大阪毎日の事業部員として天才少女、バイオリニストの辻久子を発掘、彼女のリサイタルを大成功に導いていく。漫画家のサトウサンペイを見出したのも小谷であった。その後、毎日系列の夕刊紙「新大阪」(足立巻一のいう夕刊流星号)の立ち上げに参加、新聞拡販材料として将棋の木村名人と升田七段の5番勝負を企画して評判を取ったあと、宇和島の闘牛を西宮球場で開催する興行に奔走する。

敗戦直後の輸送事情が劣悪な中で四国から特別列車を仕立てて22頭の闘牛を関西に輸送するが、予想以上の経費がかかり、開催日の天候不順もあって新大阪の資本金を超える損失を抱えるハメに陥った。しかし、持ち前の行動力でマチス、ゴーギャン、ルノアールなどの欧州名作絵画展を阪急百貨店で開催、大当たりを取って闘牛の欠損を一挙に取り戻す。

現在でも集客と文化的イメージを醸成するためにデパートでの絵画展覧会が常套手段のように企画されているが、その嚆矢が小谷プロデュースの「欧州名作絵画展」である。

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いったん、新大阪を離れ大阪毎日に呼び戻された小谷はプロ野球のパシフィックリーグの創設に尽力、毎日オリオンズを立ち上げる。席の温まる暇もなく一年後にはNHK独占であった放送事業に進出して「新日本放送」(現在のMBS毎日放送)を誕生させた。どれも、これまでに経験したことがない空(くう)からの出発であった。大阪毎日社長、本田親男天皇の無理難題を小谷は奇想天外のアイディアと情熱と行動力で実現させてきたわけである。

早瀬圭一「無理難題『プロデュース』します−小谷正一伝説」は、戦後すぐの混乱期の大阪で野人のように奔放に生きてきた小谷正一とその周辺の人物を生き生きと描き出した。とくにプロ野球界の2リーグ分裂と毎日オリオンズの発足、NHKに対抗した新日本放送の設立と番組編成のドタバタ話などはエピソード満載でスリリング。

新日本放送を軌道に乗せた小谷は、誰がみても辞める必要も事情もない同社を強引に退社、出向元の大阪毎日との縁も切って、過去、立ち上げに参画した夕刊新大阪に移籍する。
しかし、新大阪はかつての活況を呈した時代と異なっていた。大阪毎日は資本、人材を引き上げて同社独自の夕刊紙を立ち上げる。読売新聞が大阪に進出する。新大阪の坂を転がるような衰退は明らかであり資金難のなかで小谷は孤軍奮闘もむなしく同社の経営から身を引くことになる(この間の事情は、さきの「夕刊流星号」の記事を参照のこと)
足立巻一は「虹が滅ぶように父は逝った」と父のことを書いたが、小谷もまた虹が滅ぶように新大阪を離れていく。

早瀬の小谷伝は「新大阪」を辞めた時点で事実上、筆をおいた。その理由を「毎日新聞を母体とした小谷の活躍に興味があり、この人生の黄金期に焦点を当てたかった。毎日退社後のフリーとしての小谷には関心が向かなかった。それは小谷にとって余生であったというのは言い過ぎだろうか」と、あとがきに書いた。

しかし、41歳で毎日を退社して、その後“電通の鬼“吉田社長に請われて電通に入社、吉田社長の死去とともに僅か5年間で電通を離れ、イベント会社「デスクK」を設立、同社を舞台に80歳まで現役を通したわけである。電通時代には東京オリンピックの広報プロデューサー、デスクKでは大阪万博の住友童話館のプロデュース、筑波科学博では広報委員長を担当している。

確かに毎日時代と比較してプロデュースのスケールは小さくなっているが、はたして電通以降の仕事が彼にとって余生であったのか? むしろ、ここに小谷の人間味があったのではないのか。早瀬には彼の生涯を追ってほしかった。
また、これだけの男の、これだけの仕事であるのだから成功を収めるためには、必ず影、裏の部分があったはずだ。そこに小谷の人間性が浮かび上がるはずであるが、早瀬は「あえて裏の部分には踏み込まず表の部分でまとめた」との趣旨の発言をしている。

その分、ドラマ性に欠ける。足立巻一の「夕刊流星号」が流星号の誕生と滅亡を、ここに関わる人間たちのダイナミックな動きのなかでドラマティックに書いているのと比べると迫力に乏しい。だが、それはそれで著者の方針なのだから仕方がないことだろう。また、小説とノンフィクションの手法の違いもあろう。

【おまけ】
岩波書店の単行本は整理・校正がしっかりしていて信用がおけるのであるが、みつけてしまった。「死語轢断」! ぷぷっ。
そういえばタイトルも岩波らしからぬ。
「無理難題『プロデュース』します」 どこかの安っぽい新書のタイトルのようだ。
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前置きが長いのは考えもの

2011/10/14 03:27
樋口一葉のことなのだが…。
あの5,000円札の肖像画に、どのような経緯で登場したのであろうか。当時、薄倖で貧乏な若い女性を選択せざるを得ない社会的状況があったのだろうか。そういえば1,000円札の野口英世も、どこか貧乏くさくて不幸の影を背負っている。こうなりゃ、10,000円札は石川啄木の肖像、500円玉にはつげ義春の横顔を彫り込もう。日本の硬貨は植物の図案であるが、外国では人物のレリーフが採用されているものもあり、ここらでイメチェンを図るのもいいだろう。

こうして、ビンボーラインナップが完成すると、誰もお金を身につけたくなくなるだろう。懐の財布にしまっておくより、いっそ散財したほうがせいせいする。紙幣はハンカチ落としのハンカチのようなものだ。持っていては禍がかかる。他人に押し付けよう。箪笥預金などしていると座敷わらしのように貧乏神が棲みついてしまう。かくして世の中は内需拡大〜大量消費時代に向かい、日本経済は好転するのだ。

僅かしかない隠し財源を探すふりをしながら、一方で着々と増税の布石を打ちつつある姑息な財務省関係者諸君! ボクのアイディアを採用したまえ。景気は気からやってくるのだ。ビンボーラインナップは国民に喝采で迎えられること間違いなし。影が薄いというか影も見えないような安住淳財務大臣。この大英断で存在感をみせてくれ。

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10月4日付、立花隆のエッセイ「樋口一葉の消えた井戸」についてふれなければいけないのであるが面倒になった。写真を撮ったので読んでください(スキャンすれば読みやすいが、それも面倒だ。ププッ)。月刊文藝春秋7月号の巻頭随筆全文。

前々回書いたように、これに対して週刊新潮が「立花隆がおかしい。井戸はある!」といちゃもんをつけたのであった。翌8月号で立花隆は次のように反論した(要約です。あまりナマの写真を貼りつけるのも著作権の関係上気が引けるから…)。

「それは物理的には存在するが一般人が認識できる形では存在しない。かつてそこに至る道案内があり、井戸そのものに公的表示があった。いまはない。すぐ近くの文京区ふるさと歴史館では本郷周辺の史跡地図を配布しており、以前の案内地図には一葉旧居の表示があったが、いまは消されている。歴史館で旧居跡を尋ねたが私有地だから教えられませんとの答えが返ってきた。
そこから700m離れた樋口一葉終焉の地は100%私有地だが、ここには立派な説明パネルがある。その上、平塚らいてう、幸田文らが建てた文学碑がある。さらに付近の住民が作った説明のしおりを入れたブリキ箱があって自由にお持ち下さいとある。これなら文句なしだ」

立花隆が言いたいことはよくわかる。週刊新潮のいつもの手である曲解によるからかいは百も承知だ。それでも「その井戸を含めて、その路地全体がいまや完全に消滅してしまったのだ。そこにそのように路地や井戸があったことを示す説明パネルすらない」と書くのは誤解を招く可能性がある。これでは路地も井戸もブルドーザーで壊され、その跡地に表示すらないと解釈できるではないか。
その後を読めば「公的財産なのに住民の都合で井戸のありかを隠してしまった」(立花は明確に書いてはいないが、まあ、そういうことでしょう)という経緯がなんとなくわかるのであるが…。

一方で、ここに団体のおばちゃん、おじちゃんが入れ替わり立ち替わりやってきて、どこかの素人文学・歴史の先生が解説し始めると、そりゃあ近隣の人たちはうっとおしいだろうなあとも思うわけだ。ボクは連れ合いと、この場所を訪れたが、井戸を挟んだ路地の両側の住宅にはヒトの気配があり立ち止まるのをためらった。写真をさっと撮っただけで、すっと菊坂のほうに抜けたが、グループでの見学ともなるとこの気配りができない。
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エッセイ全文を掲載したのは、別に一葉の井戸の論争?を書きたかったからではないのです。別の意味で「現代のグスコーブドリ」と題された、この巻頭随筆、ちょっと変だ。

蜷川幸雄まで引き合いに出して本郷の路地に長々とふれた上で宮澤賢治に論述を進める。そして賢治の「グスコーブドリ」に話題を無理やり引っ張って「次世代エネルギーとして自然エネルギーである地熱に注目!」と書く。オチは会津の地熱開発技術者は現代のグスコープドリだと?? 長々と書いた路地裏と一葉は、どういう関係があるのだろうか? エッセイのタイトルが示すように原発亡き後の代替エネルギーがテーマなのだから本郷は関係ないだろう。前置きを書きたいのならばせいぜい「宮澤賢治に“グスコープドリの伝記”という短編がある」くらいから始めてくれないかなあ。
それに賢治のグスコーブドリは自然エネルギーを制御することがテーマではなく−したがって立花の会津の研究者をグスコーブドリに例えるオチは少しずれている−科学者としての誠実さ、自己犠牲の精神を扱っていると思うのだが…。
もうひとつの勘違いは、地熱発電は自然の制御ではなく自然との共存なのである。地熱発電で自然をコントロールしようなどという思い上がった科学技術では将来に禍根を残すことになるだろう。

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おっと、人のことは言っていられない。だいたいボクが今回の立花隆の手法なのだ。前置きが長くて強引に話を展開させて言いたいことはホンの少し。ヘタをしたら言いたいことも書かない。それで、いままでの長饒舌は一体なんなの?ってタイプだから。ぷぷっ。
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近況報告を入れます

2011/10/06 23:38
本文原稿の上「ブログ紹介」に
たわいのない話を入れていきます。
本文も鋭意努力して書きましょう。
ときどき見てね。

立花隆「消えた井戸」の謎。
近日(多分)掲載予定
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路地裏つながりの、どど〜んと三連発

2011/10/04 00:45
本年6月頃に「事前のお知らせ」が届いていたのだが、すっかり忘れていた。
先日、文藝春秋のPR誌「本の話」10月号が配達されて、この号で休刊というペーパーが同封されていた。
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「本の話」は新潮社の「波」、講談社の「本」など他出版社のPR誌と比較すると自社出版物の宣伝臭が強くて編集も粗かった。連載ものでは贔屓にしていた矢野誠一「昭和の藝人ちょっといい話」、吉村作治「教授のお仕事」が本年初めに次々と最終回を迎えて、ボクにとってはすでに魅力的なものではなくなってしまっていた。
このため、廃刊自体はそれほど残念ではないのだが、文藝春秋においてさえこの苦境に、いまさらのように紙媒体の不振とネットの盛況を考える。
今後は月刊「文藝春秋」内で独自の扉や目次をつけて独立した形を残しながら「本の話」のコンテンツを継続するとともに、連載ものはウェブサイトに引き継いで公開するという。

文藝春秋のPR誌への進出は後発であった。「本の話」は1995年7月の創刊である。当時、先行していた各出版社のPR誌には岩波書店の「図書」、講談社の「本」、新潮社の「波」、集英社の「青春と読書」、小学館の「本の窓」、後は「ちくま」、丸善の「学燈」、東大出版会の「UP」、吉川弘文館の「本郷」、「みすず」などがあり(他にも各出版社がそれぞれの立場で発行しているが)、このあたりがボクの守備範囲。定期購読は「波」「本」「図書」「本の話」の4誌で、他は目についたときに頁をめくるくらいである。
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どのPR誌も送料込みで年間1,000円程度であり経費的には全く負担にならない上、内容も各社趣向を凝らしているため楽しみではあるが、小さなポイントの活字で詰め込んだ80頁ほどの雑誌(新潮社の「波」は120〜150頁建て)が月に4冊も送られてくると、消化するだけで大変である。

「本の話」創刊号の特集は忘れもしない「立花隆の研究」であった。あれから16年が経ってしまったのか。時の流れの早さに驚いてしまう。その立花先生、3〜4か月前の月刊文藝春秋の巻頭エッセイで「本郷菊坂にあった樋口一葉所縁の井戸ばかりか、その井戸を含む雰囲気のある路地全体が完全に消滅した」と書き飛ばして物議をかもした。
その掘り抜き井戸と路地は明らかに立花の間違いで、いま現在も存在しているのだが…。
昨年、ボクもこの井戸にふれています。
こちら 
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週刊新潮から「立花先生、ついにボケたか?」という同誌らしい揶揄を込めた批判記事が出たが、先生は次号の文藝春秋で果敢に反撃?した。
以下、続く。
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若い友人が(ボクより20歳若いというだけで40歳の思いっきり中年ですよ)このたび晴れの挙式を迎えることになり、全国各地から集まったご祝儀の配達役をボクが仰せつかった。根津の割烹「うさぎ」が、その密会場所。本郷に近接する根津も雰囲気のある路地が存在する。割烹「うさぎ」のあたりがそうである。
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ボク、もう酔っ払って寝てしまいました。渡すものは渡したから、キミら二人で好きなように話していなさい…という親心なのに、それなのにボクの居眠りを盗撮してネット上にあろうことかモザイクも入れないで流してくれました(ここだけの話だが、その写真をみて、わあ、susieさんって寝姿もかわいいとアクセス数が伸びた【ネットの管理人談】)
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新婚旅行はパリのルーブル博物館とオペラ座という。海外といえば海釣りで神奈川県・三崎口の沖合い筏に浮いているのと、本州から船に乗って四国に渡っただけという男と、帰国子女でパリ、オランダと頻繁に出張している女の珍道中。帰国後に、じっくり話を聞かせてもらいましょう。
そうそう、新婚旅行のタシにしてくれと全国各地から集金した祝儀を渡したのだが「はい、ありがとうございました。飛行機のなかでのおやつ代にします」と軽くいなされてしまいました。おやつ代かよ! うーむ。中身を見抜かれてしまっている。

いやいや。そんな話ではないのです。新郎の左にある吸い殻のヤマをみてください。あなた、結婚するのだから少しは身体をいたわりなさいよ。
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ボクはこの酒席で僅か3本を吸っただけ。のみならず10月1日からきっぱりと禁煙しています。少なくとも3日坊主は突破したところです。癌を患ったあと、定期的・循環的に胃、大腸の内視鏡、肺がん検査、MRI、エコーなどを実施しており、年に12〜13回は病院に通っているが、検査で表面化するのは癌の再発ではなく枝葉末節の切れ痔であったり潜血であったり肺気腫・肺嚢胞であるわけです。
肺気腫・肺嚢胞は命に関わるような病気ではないが喫煙が大敵である。すでに症状が現れているのだからこれ以上よくなることはないと医者に怒られ、進行したら酸素ボンベを背負うことになるから煙草だけはやめなさいときついお達し。それでも一日数本は吸っていたのだが、キリがないので、この際、断固やめることにした。さーて、いつまで続くか?アチコチから哄笑が聞こえる。

で、好きな作家である筒井康隆(好きとは言っても小説は10冊前後しか読んでいないが…)の日記をネットで読んでいたら、以下の記事にぶち当たった。
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おおっ〜。ここまで断定的に自信を持って書くか。
この力強さは一体なんなのだ。
ボクは馬鹿の見本ではないか。卑小な男ではないか。
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あの筒井先生にこうまで言われると、ボクの禁煙の気持はくずおれてしまうのだ。
チヌのうみさん、吸いなさい。どんどん吸って吸い尽くしなさい。精神的にも肉体的にも不健康なことをする必要はありません。
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定点観測による内幕暴露話が好きである。なかでも面白いのはタクシードライバーによる密室での出来事暴露。ホンマかいなというエピソード、不倫のいちゃいちゃ、政治・経済・芸能界の内密話、変人・奇怪な行動、はては幽霊・オカルトもの、あらゆるものがゴロゴロ転がっていて読んでいて飽きない。なかにはドライバーの創作ではないかと疑うようなものもある。ボクだって、ほんの少しのヒントを与えてくれれば、そこから話を発展させて、ふたつやみっつは見てきたようなウソ、臨場感あふれるヨタ話を創作してしまうよ。
まあ、特殊な密室で運転手をヒトとは思わないような、世界が全部自分たち中心に回っていると勘違いしている連中もいるだろうから、案外、実話が多いのかもしれない。

「神保町タンゴ喫茶劇場」(掘ミチヨ著、2,100円、新宿書房刊)は神保町の有名なタンゴ喫茶で働いていたウェイトレスがお客さんの実態を定点観測したものである。
ボクはこの近所で30年以上、仕事をしていたので、この喫茶店をよく知っている。同書が実在の喫茶店名を挙げていないのでボクもあえて店名はスルーするが、この本の書評を朝日新聞紙上で逢坂剛が次のように書いている。彼も、この近辺に事務所を構えて、この喫茶店に時々訪れているのだ。
「読んでいてホントカイナと思わせる話もあり、匿名とはいえ当人が読んだら不快を覚えそうなコメントも散見される。ユーモアのこもった語り口が救いだが、そのあたりが少し気になった。
もっとも評者(逢坂)はここで取り上げられたような客に、一度も出会ったことがない。従って、これがすべて著者の創作だとしても驚きはしない。むしろ、そう思って読んだ方が無邪気に楽しめるかもしれない」
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逢坂の書評を読んで、著者が書いている客の実態は創作であろうが事実であろうがハチャメチャ面白いのかもしれないと興味を持った。いやあ、逢坂にまんまと騙されてしまった。こんなふうに逢坂が評すると逆に期待を持ってしまうではないか。単に歴史を持った喫茶店に出入りする客たちのよくある話を集めただけ。いずれも想定の範囲内のエピソードであった。何十年振りに訪れた客。不倫の待ち合わせ場所。痴話喧嘩。生臭坊主。喫茶店を舞台とする生と死…。
ただ、この路地裏に棲息するホームレス=ジミーが全編を通じて通奏低音を奏でて、いい味を出している。この部分は著者・掘ミチヨの創作がかなり入っているように思われた。
そう、このタンゴ名曲喫茶も神保町の路地裏にひっそりと佇んでいるのだ。

この喫茶店のモデルかどうかは著者が隠匿しているのでわからないが(ぷぷっ)、ボクもこんな記事を書いています。
こちら
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若い命を身にまとい 歴史と戦う夢を見る

2011/09/08 02:59
昨夜、眠れず否も応もなく徹夜になった。漫画「パタリロ」などを読み返していると深夜は肌寒い。空気がすっかり入れ替わってしまった。さしもの盛夏の力も衰えている。

爽やかな秋の早朝の朝刊を開くと台風12号が残した爪跡は凄まじく、和歌山・奈良を中心に死者・行方不明合わせて100人超、2,300人が孤立との見出し。
「天災は忘れたころにやってくる」と誰が言ったのか知らないが(少なくとも寺田寅彦は言っていないはずだ)、舌の根も乾かないうちのパンチが繰り出された。被害状況に不感症になっていることが悲しいが、ボクらはこの年の相次ぐ天災と人災を決して忘れてはいけない。

十津川はボクにとって思い入れの深い村だ。今年2月、春になったら十津川をメインに那智、熊野古道をセットで歩こうと連れ合いと話していた。なんとか2泊3日で回れないかと計画を立てるのだが、東京から十津川はハワイへ行くよりも遠い。クルマという足を持たないボクらにとって、もう1泊が必要であった。
そんなわけで愚図々しているうちに3.11大震災、津波と福島原発事故。あっけにとられて気勢をそがれて、ボク自身も関係する団体の震災対応側面援助で心がざわつき忙しくなり沙汰やみとなってしまった。

やっと落ち着いた最近、つい1週間ほど前のことだ。連れ合いと涼しくなったら出かけようかと話したのだが、なってこった。行くも行かないも十津川は泥流にさらわれライフラインが完全にストップ、熊野古道は寸断、中辺地は通行不能…、どこからも十津川に入れないではないか。

京都・近江屋に中岡慎太郎とともに宿泊していた坂本竜馬を、ある青年が訪ねる。
「十津川郷士の○○というものですが、坂本先生はご在宅でしょうか?」
近江屋の手代は十津川郷士と聞いて安心して、竜馬に取り次ごうと階段を上る。その十津川郷士は竜馬が逗留していることを確信。手代を斬りつけるや疾風のように階段を駆け上がった。人数は数人に増えている。十津川郷士を名乗ったのは油断をさせるためであって、実は京都見廻組の刺客たちであったのだ。

司馬遼太郎の「街道をゆく12 − 十津川街道」(朝日文庫)の冒頭である。もちろん、竜馬はここで31歳の若い命を終えてしまうのだが、主題は彼の死ではなく十津川郷士と十津川村の幕末での政治的位置である。

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十津川は古来より免租地であった。大海人皇子(天武天皇)が、天智天皇系の近江朝と皇位継承をめぐって対立して吉野に隠棲した。やがて壬申の乱が勃発、このとき十津川の兵は天武側に味方して、その功績で租税を免除されたという伝説がある。江戸時代は十津川の北方、五條に代官所があり幕府の天領であったが、これも年貢は免除されている。
免除されるというよりは、あまりに貧しくコメの収穫もなく免租せざるを得ない土地であったというのが正直なところである。
「大和十津川御赦免どころ/年貢要らずの作り取り」…という言葉があるそうだが、これは貧しさを逆手に取った十津川の人々の明るさですね。

交通の隔絶した大山塊であるため、中央権力の及ばない一種の政治的空白地帯であったのは間違いないと司馬は言う。古来から人民から税金を収奪するのが政府〜行政のもっとも基本の仕事であるから(そうだよね?、疑問の余地はないよね)、ヤツらが免税にしたということは、十津川は逆にいうと誰の支配も受けない自治的組織として運営されていたわけである。
一方で、十津川は政変のたびにその地名が浮かび上がってくる。平安末期の保元の乱、源頼朝に追われた義経の吉野への逃避行では、義経は十津川で消息をプツリと断っている。鎌倉方の必死の探索にも関わらず、ここから安宅の関を通過、北陸道を経由して平泉に姿を現わすのである。後醍醐天皇〜南北朝時代の楠正成の挙兵、大坂冬の陣での徳川側への出兵…、奈良、京都に地理的に近く、多くの人数は望めないものの兵力の貯蔵地でもあったわけだ。

そして幕末の十津川郷士。
神武天皇が熊野に上陸して十津川を通過して大和を平定、神武朝が成立するという日本国成立の神話があるように、十津川は伝統的に天皇と結びついている。それが誇りでもある。今日は勤皇、明日は佐幕の政治状況のなかで若い十津川郷士たちは山を下って京にのぼり、京都御所を護衛する。
一方で十津川では公卿中山忠光を大将とする革命志士達の天誅組が暴発、幕府の五條代官所を襲撃して代官を殺害、明治維新に先立つこと5年、一方的に革命政府を樹立した。この過程で十津川郷士はなかば脅迫されるように天誅組に組み入れられたわけである。
しかし、京都中央の政変によって天誅組は寄るべき立場を失い暴徒として幕府軍の攻撃を受けて壊滅。気の毒にも十津川郷士は右往左往する結果になった。そうした状況のなかで十津川郷士の尊王攘夷の評価は高く、坂本竜馬はとりわけ十津川郷士をかわいがったというが、その十津川郷士を偽った京都見廻組にあっけなく斬殺されるわけである。
十津川兵はその後も新政府軍の一翼を担い戊辰戦争に参加、奥羽に転戦するなかで多くの若い命を失っている。

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                             【闖入者。おまえは京都見廻組か?】

その十津川を明治22年8月、豪雨による大水害が襲った。死者168人、被災者は2,600人。復旧には30年かかるといわれ、もともと貧しい土地柄。復興をあきらめ村を棄て北海道の荒れ地に2,500人が移住する。
空知の新十津川村(現在は町)である。
http://www.town.shintotsukawa.lg.jp/53_shoukai/rekishi.jsp

今回のように交通、通信手段が発達している状況下においても、なお十津川は大洪水で孤立した。いまなお孤立している。明治22年の状況はどうであったか。
「下界まで変事の報がなかなか届かなかった。4日も経ってから谷瀬という字の人が決死の覚悟で神納川の小渓流をさかのぼって高野山にのぼり、その門前町から吉野郡の郡役所に電話をかけて報じた。この人の名はのこっていない」(司馬)
奈良の県庁は騒然とした。戦国時代からの呼称である土木・築城の専門家である黒鍬衆をかき集めて投入したが、あまりの悲惨さにどうすることもできず、黒鍬衆の親方は川の寸断によって形成された無数の湖をみて泣いたという。
明治22年も現在も、まったく変わっていないじゃないか!

「十津川街道」は
司馬の「街道をゆく」シリーズ43巻のなかでも際立った名作のひとつ。
♪来年あたり出かけてみよう。十津川へ。きっと行くからね。
純朴な若い十津川郷士が混沌とした幕末の京都を闊歩している姿が目に浮かぶ。♪若い命を身にまとい 歴史と戦う夢を見る…ぷぷっ。

余談だが、ネットサーフィンをしていると「MrRD50」という方が、吉田拓郎の「レールが鳴ると僕達は旅がしたくなる」をyou tubeにupしているのを見つけた。
♪波にきらめく若者はまばゆいほどに輝いて
若い命を身にまとい 歴史と戦う夢を見る…

いま、十津川に若者はいるのであろうか。
歴史と闘って十津川再興を担う若者はいるのであろうか。

このyou tubeは曲のバックに信州上田城と真田幸村/十勇士を流している。これは違うんじゃないか? この曲のバックは幸村ではなく十津川郷士でしょう? 
って、どこのどなた様かは存じませぬが、勝手な注釈、ご無礼いたしました。このブログがMrRD50さんに見つかったら怒られるわ。

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近所じゃ不良だった

2011/07/25 02:11
岩にしみ入る蝉の声を、この夏はまだ聞いていない…
といっていたら本日24日、ミーンミンミンと僅かに一声鳴いた。それだけ。このミンミン蝉、「しまった!俺ヒトリだぜ。みんな、まだ土のなかにいるのか。早まった」と後悔しているのだろう。マンションの非常階段にとまっていたアブラゼミがボクに驚いてバタバタと飛んで逃げた。大合唱にはもう少し時間がかかりそうだ。
ええっ〜、挿入写真は本文原稿となんの関係もありません。

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芭蕉は13歳のときに、伊賀上野・藤堂家の侍大将藤堂良精(5,000石)に台所用人、料理用人として召し抱えられる。良精の嫡子・良忠(俳号・蝉吟)の2歳下の遊び相手でもあった。その良忠から俳諧の手ほどきを受け、同時に衆道の手ほどきを受ける。芭蕉は俳句の腕をメキメキと上げて、蝉吟とは主従関係ではあるものの俳句の実力としてはすでに逆転していた。もはや義兄弟のようなものだ。
侍大将5,000石の若殿は25歳で急死する。家格の低い芭蕉は若殿との繋がりのみが出世の糸口であって、蝉吟が亡くなってしまえばもはや用なしである。芭蕉は29歳のときに大志を抱いて江戸に向かう。

江戸で俳諧修業をしながら、いまの文京区小石川で水道の浚渫工事を請け負っていた。伊賀上野の田舎から出稼ぎに来て、町名主等の信頼を得て100人の人夫を差配する土木建築の親分になっていた。金勘定、帳簿付け、実務能力があって、気の荒い多くの人夫を使いこなす気配りと豪胆さがなければ務まらない仕事である。

実はこれが芭蕉の実像なのですね。当時、俳諧はいってみれば旦那芸である。金持ちの商家の旦那たち、江戸在住の地方の大名家の知的・文化的なことに興味を持っている格式の高い武士連中、こういった人間を組織していかなければならない。いわゆる蕉門はそれで発展するわけです。

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芭蕉は後年、各地を旅した。まさに「旅に病んで」という状況であった。これらの旅の路銀、宿泊費と飲み食いの費用、これらはすべてといってよいほど江戸および地方のスポンサーによって賄われていた。
会えば一発で相手を虜にする、そのカリスマ性、それまでの芭蕉以前の俳諧に属していた人たちを自陣に引っ張ってくるだけの論理性、時代を読む力、人をたらしこむ技術、それを芭蕉は持っていた。そのうえで芭蕉の俳諧の芸術性ということでしょう。

こういう人間は普通、幸せな死に方をしない。事実、一大蕉門を形成した芭蕉は高弟たちに、ことごとく離反される。離反されるというよりも、芭蕉自身が先に先へと進んで弟子を置いてけぼりにするわけだ。教養としての重みのある芸(商家の旦那衆の芸としてふさわしい)と思って集まってきた弟子たちは突如、師匠の「オレ、こんなのやーめた。軽ろみに走る」という方針転換に面喰ってしまう。

そんなもの、旦那衆としたら何の価値もないのだ。旦那衆としたらちょっと重厚なものを味わいたいだけだから。それで一般町民との差別化を図っているのだから。軽いものに先生がいってしまったら弟子たちの立場がないじゃないか。

また、集まってきた弟子たちは、どこか怪しい雰囲気を漂わせていた。高弟・凡兆は6年間入獄している。獄中詩人である。知人の犯罪に連座したともいわれるが詳細はわからない。彼は芭蕉にさからったため、芭蕉没後、蕉門からは無視された。名古屋の米屋の若旦那・杜国はコメのカラ売りの罪で死罪のところを、その才能を惜しまれて紀州藩から配流となった。いまでいえばホリエモンのような経済犯であったのだろう。

芭蕉はこの美貌の杜国を密かに連れて衆道の旅に出る。吉野、明石・須磨・京都を巡る旅である。犯罪人を秘密裏に呼び寄せて旅をするのだから、芭蕉も杜国も大胆である。芭蕉が「よし野にて桜見せふぞ檜の木笠」と詠めば、杜国は「よし野にて我も見せふぞ檜の木笠」と応える。同行二人の蜜月である。

もちろん、犯罪人との秘密旅を出版して公にするわけにはいかない。この旅の草稿は芭蕉が伊賀上野の兄に預けておいたが、芭蕉の死後に刊行された。「笈の小文」である。それにしても杜国を実名で書くわけにはいかぬ。杜国は笈の小文では「万菊丸」とそのものズバリ、あられもない俳号で登場する。杜国は芭蕉との旅を終えて別れて2年後に死ぬ。病死ではなく自殺ではないかといわれている。
杜国の句に「陽炎の燃残りたる夫婦(めおと)かな」「水錆びて骸骨青きほたるかな」がある。すさまじいといえば凄まじい句である。

あっ、余計なことであるが、十返舎一九の「東海道中膝栗毛」。オナジミ、弥次さん、喜多さんの珍道中であるが、嵐山光三郎に言わせるとこれも衆道の旅であるという。本当か?

その他、膳所本多家の藩士・曲翠は家老を斬殺して自刃する。ホームレスから芭蕉が拾い上げた路通は蕉門でも評判が悪く、弟子たちが彼を破門にせよと言うものの、芭蕉は受け入れずかわいがったために、多くの弟子たちが芭蕉から離れたという。bPの高弟・其角はもともと放蕩児、不良である。おくのほそ道に同行した曾良だって怪しい人間の筆頭だ。芭蕉が、そういう人間たちの磁石となっているのだろう。

数々の弟子たちの裏切りがあるなかで、芭蕉の高弟たちで最後まで残ったのは其角であった。其角は芭蕉の晩年には(全国的には蕉門を束ねる芭蕉の力に及ばなかったが)江戸ではすでに芭蕉を超えていた俳諧の雄であった。もはや江戸では芭蕉の時代は過ぎて其角の時代であった。その余裕であろうか。其角は最後まで芭蕉を支えた。

その其角が芭蕉亡き後、蕉門を継ぐ。一方で其角は芭蕉の「かろみ」など「ヘ」とも思っていなかった。芭蕉の閑静と其角の伊達。其角は別に芭蕉の看板に依存しなくても押しも押されもしない大スターだったから。
去来、乙州、丈草、支考、惟然…、
一癖もふた癖もあり、実力者揃いの蕉門の次期後継者がこんな姿勢だから、蕉門は芭蕉の死後、分裂に分裂を重ねていく。蕉門は破綻者の集まりだったのかもしれない。

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嵐山光三郎の「悪党芭蕉」は、そんな芭蕉の人間性に迫ったもの。どこまで本当なのか、嵐山の独自の判断というか曲解なのかボクにはわからない。
いずれにせよ以前、何かの本で読んだが、俳句は17文字であるだけに17文字だけで世界を現わそうとしても無理である。言葉ひとつひとつに過去の和歌、俳句、故事来歴などが含まれていて、それを知らなきゃ解釈のできない半可通であるとのことであった。
芭蕉を分かろうとすると中国の古典、古今集などなど、そして芭蕉が傾倒した西行などの事績を当たらなければならず、ボクにはそんな能力はない。おおっ、この言葉遣いは面白い、そんなことで流してしまっている。ただ、しらず知らずのうちに、時の流れのなかで芭蕉を神格化していた点は否めない。よーく考えれば、こんな文芸をやるヤツってロクでもない人間に違いないのだから。

坂本九が好青年、好人物と言われているが、小林信彦に言わせると「若い頃はとんでもないヤツだった」ということになる。当たり前で、あの当時、歌手になろうなんて人間は近所じゃ不良です。それを隠して演じるということは大変なことであったろう。タイガースが長髪とエレキで紅白歌合戦に出場できなかったのと同じである。世の中から迫害される人間たちである。
ん? 芭蕉とまったく違う? 例として当たっていない?

同じく嵐山の「芭蕉紀行」と併読すれば面白い。

芭蕉がなくなったのは元禄7年(1694年)10月。享年51。この8年後に赤穂浪士が吉良邸に討ち入る。5代将軍綱吉の時代である。サロン文化?という言い方か適当なのかどうか自信はないが、好景気のなかで文化・文芸が花開いたのだ。嵐山光三郎に言わせると「俳諧は無用者の復権」であり、この揺り戻しとして赤穂浪士の討入りによる「武士の復権」がなされた。
そういう時代背景のなかで「奥の細道」は書かれている。

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夜ル窃ニ虫は月下の栗を穿ツ

2011/07/08 00:49
い、いかん。とんとんと行くはずだったのに、もう止まってしまった。
申し訳にもならないが、ともかくも原稿を入れておこう。

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日本人って、どうして芭蕉が好きなのだろう。
いつ覚えたのかわからないほど、子どものころ自然に覚えてしまった。
当たり前のように、その辺に言葉が転がっていた。
「古池や…」「旅に病んで…」「夏草や…」。
そんな刷り込みの結果が、日本人を芭蕉好きにしているのだろうか。
逆に芭蕉をまったく評価しない人々もいる。
これは一般人ではなく専門家の人たちだが。

それにしては芭蕉がどんな人であったのか、知らない人が多いのだ。
ボクもその一人である。
一応、芭蕉本の何冊かは持っている。
読んでいない。未読王の最たるもの。

芭蕉の「おくのほそ道」は400字詰め原稿用紙にすると高々30枚に過ぎない。それすら、ボクは最後まで通して読んでいない。月日は百代の過客にして、行きかふ年も又旅人也。ツキヒハハクタイノクワカクニシテユキカフトシモマタタビビトナリ。以下、数行は諳んじて言えるのであるが、ただ、それだけのことである。

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嵐山光三郎の「芭蕉紀行」(新潮文庫、2007年4月発行)および「悪党芭蕉」(新潮社、2006年4月発行)を今回まとめて読んだ。

「芭蕉紀行」は嵐山が芭蕉の旅の跡を忠実に歩いてリポートしたもの。白眉はもちろん「おくのほそ道」のルポであり、観光案内として優れているとともに原典「おくのほそ道」の解釈本ともなっている。
一方の「悪党芭蕉」は俳聖・芭蕉とあがめられる芭蕉の本当の顔を暴こうとしたものである。と言いながら、嵐山は芭蕉好きである。惚れたものの弱みであって、悪党芭蕉を書くどころかデカダンス、肩にハマらない芭蕉、進化する芭蕉、好漢芭蕉を書いてしまって逆に持ちあげてしまっている。
しょーもない男である。悪党芭蕉と銘打つならば、芭蕉のとんでもなく嫌な面を書かんかい! プッ。

さて、以前、他人さまのブログに書いたことであるが、芭蕉の有名な俳句「松島やああ松島や松島や」が、芭蕉の句でもなんでもないことをご存じてあろうか。案外、このことも知られていない。これはどこかの敏腕観光プロデューサーが松島観光を盛り上げるために創作したキャッチフレーズである。芭蕉と何の関係もない。だいたい季語もなく俳句になっていない。もっとも俳句に季語がなくても別にいいのだろうが。よくは知らんけど。

ボクは、まだ知っている。芭蕉は両刀使いであったこと。衆道の達人であった。芭蕉は伊賀上野の殿様の若君であった藤堂良忠の近習となって、彼に俳句の手ほどきを受けた。良忠の俳号は「蝉吟」(せんぎん)という。のみならず、蝉吟には衆道の手ほどきも受けたのであった。嵐山光三郎によると「閑さや岩にしみ入る蝉の声」は、若くして亡くなった蝉吟を追悼した絶唱であるという。あるじを失った芭蕉は伊賀上野にいる意味がなく、江戸にくだり、ここから長い俳句の人生が始まる。

まだ、知っているぞ。奥の細道に同行した弟子の曾良は幕府の隠密だった。というか、幕府の地方調査係ですね。芭蕉について知っているといえば、上↑のことくらいなのだ。わはは。

嵐山の「芭蕉紀行」をたよりに「おくのほそ道」全文を初めて読んだ。これは名文ですね。さらに仕掛けが凄い。高々原稿用紙30枚に何重にもアミを張り巡らせて緻密である。

恥ずかしながら…。
冒頭の俳句「行春や鳥啼魚の目は泪」と、最終の「蛤のふたみにわかれ行秋ぞ」は行春と行秋が対の句になっているのだそうだ。へえっ〜〜。両句とも、もちろん知っていたが、そんなカラクリ?があったとは。全行程2,400q、160日間に及ぶ旅は、きちんと計算され尽くして書かれているのだった。

ぼくが好きな芭蕉の句、二句をあげて今夜はやめよう。

夜ル窃ニ虫は月下の栗を穿ツ

これは凄いよ。虫が月の光を浴びながら栗の実に穴をあけているのだ。ひそかに音もなく虫は穴を穿っているのだ。そこに月の光が射し込んでいる。なんという光景。

もうひとつは、蛸壺やはかなき夢を夏の月

朝になってしまうと蛸は漁師に引き上げられてしまうのだ。それとしらないで壺のなかで蛸は眠っている。蛸のグロテスクさ、月の光を通した海底の暗さ。静けさ。はかない夢。対照的な朝の明るさ。グロテスクも何もかも白日のもとにさらされる。

どちらもホラーがかっているし、物語の展開があって、また月の光がうまく使われている。こんな句すきだなあ。芭蕉は月フェチだそうです。さらには神社フェチだそうです。そういえば月関係の句は多いですね。
続く。
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丘にのぼって下界をみれば

2011/07/04 00:54
長く原稿を入れていないと、もう、このまま放置してもいいかという諦観?がふつふつと湧いてくる。ネット宇宙には、そういうブログがくらげのように浮遊している。ボクが生きている分には、誰も見向きもしなくなったブログをボク自身が夜中にひっそりとイッヒッヒと読み返して嗜虐、悦楽にひたれるのだが、急逝でもしてしまったら持って行き場がなくなってしまう。
どこかで、誰かがお節介のスパムコメントを入れてくれるから、ブログの期限切れも逃れてずっと現役・稼働中となるわけである。みっともないこと、この上もない。

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絲山秋子の芥川受賞作「沖で待つ」は同期入社の太っちゃんと私の、恋愛感情を抜きにした仕事を通じた信頼と友情の物語である。ふたりの職場の雰囲気が生き生きと描かれているが、後半に向かって急展開する。太っちゃんと私の約束。パソコンのHDDには必ずといってよいほど恥ずかしいもの、秘密にしたいものが格納されているから、どちらかが先に死んだときには記憶円盤を壊してしまおう。
太っちゃんが急に死んで、その約束を果たすべく、私は彼のアパートを訪ねて部屋に忍び込む。短編の名手、絲山秋子、会心の作である。沖雅也の「涅槃で待つ」と勘違いするなよ!、などといいながら、次回への伏線を張っているのだ。

いやあ、他人さまの掲示板やブログには精力的に半畳を入れているのです。−ところで「半畳を入れる」の語源をごぞんじでしょうか? 芝居に関係していますが暇なときにお調べください−、そんな暇があったら自分のブログを書きなさいということなのだが面倒になってしまいます。こういうものは(例え、拙い文章でも)書き続けなければ、何の意味もないことを改めて思うわけです。

一念発起。これから怒涛のごとく流れていきます。
そうかー、ホントか?

平泉が世界遺産でいいのか?
平泉の中尊寺周辺が世界遺産に認定された。祝賀ムードに水を差すつもりはないのだが疑問符がつく。それほど世界的に評価されるものなのだろうか? 世界遺産に登録するためのアピール工作資金がなくて、埋もれてしまう発展途上国の遺跡を思うたびに胸が痛む。
この周辺には二度訪れている。一度目は20歳のころ。二度目は、それから40年近い歳月が流れた、つい数年前だ。20歳の頃に、もちろん「光堂」をみたはずだ。数年前に訪れたとき、それすら忘れていた。こんな場所に安置?されていたか? 金色堂ってどんなものだったのか? うーん。確かにツワァイス見たのだが、この原稿を書く時点で、もう忘れそうである。

五月雨の降りのこしてや光堂

五月雨を降りのこしているって? 芭蕉の時代からここには覆堂があって、雨掛りなんかしないのだ。いまも、この覆堂のなかの金色堂をみたら力が抜けるようにがっかりしてしまう。ぷぷっ。芭蕉のフィクション。芭蕉は覆堂を取っ払って雨に打たれて朽ち果てようとしている光堂を目の前に見ている(はずだ。) 芭蕉は決して世界遺産の光堂など見ていない。

毛越寺(もうつうじ)もしかり。浄土思想を現わしているそうだが、なーんかなあ。名庭園といわれるような、どこの地方にもあるような庭じゃないか? 栗林公園や後楽園や六義園と変わらんぞ。あはは。どういう観賞眼を持っているのかと怒られるのだろうな。

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おお、新聞等にも掲載されている浄土思想だ。ここが一番の撮影ポイントのような気がする。
おおおっ、これも浄土思想か?

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東北の独立国家をみよ! 
いまなお独立国家を模索せよ

ボクにとっての奥州、平泉は中尊寺や毛越寺ではなく、蝦夷であり平安中期の安倍、清原氏であり、奥州藤原三代の栄枯盛衰である。中央集権国家の枠外にいて反旗を翻した人々の思いなのだ。形ではない。箱モノではない。
そして義経であり、芭蕉なのだ。

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平泉旅行でもっとも感激したことは平泉駅を降りて線路沿いに、周辺はほとんど畑といってよい国道沿いを北上して中尊寺に向かう途中、右手に小高い丘がある。この高台は北上川に浸食されて現在は半分くらいになっているというが、そこが源頼朝に追われて藤原にかくまわれていた高舘義経堂(あっ、きちんと入場料はとられますよ)。不遇の義経の居館があったところだ。

高台に上がって眺める景色は、まさに義経が眺めていた景色である。前面に北上川が滔々とながれ、右手には弁慶が立ち往生した衣川が北上川に合流している。風景がね、ダイナミックで美しい。地形的にみると、ここが要害地、いってみればひとつの砦であったことは一発でわかる。義経は結局、鎌倉幕府の圧力に耐えかねたボンクラ藤原息子たちに殺されたのであるが、そういう事態も想定しながら、ここに居館を構えたのであろう。時間があれば何時間でも佇んでいたい場所だ。チマチマした中尊寺など20分も廻ればよい。

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夏草や兵どもが夢の跡

藤原三代の栄華も義経主従も草叢のなかに散ってしまった。もう、芭蕉は無情だけをみているのである。

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2〜3回、芭蕉について書きます。トントンと原稿を入れていきます。お見逃しのないように。ぷぷっ。ってね、気持を奮い立たせるのだが、諸事情によっていつも予定通りにはいかないのだ。


ん? 最初に出てきた絲山秋子の「沖で待つ」はなんだったのだろう。
わかりやすく言えば「前座」なのだが、なんで芭蕉の前座になるのか。まっ、ビートルズの前座に氷川きよしが歌うようなものなので、別に深くは考えないでください。その時の気分次第です。

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四等身吾妻の渾身の漫画

2011/06/07 02:31
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公共施設外の隅っこにある喫煙場所でタバコを吸っていたら、おじさんがやってきた。といってもボクより若いおじさんだ。決して近寄らず、ボクのほうをチラ見しながら距離を一定に保ってブラブラ歩いている。喫煙場所に同席するのが煩わしいシャイタイプの男らしい。タバコを吸い終わったボクは彼にスペースを譲る仕草をして灰皿スタンドを離れた。

おじさんがすっと寄ってきた。ポケットからタバコを取り出すのかと思いきや、スタンドの周りに落ちている吸い差しのタバコを手早く拾い集めた。灰皿の蓋を開けてシケモクを選り分け早速その一本を吸い始めた。うううぅ、手際がよすぎる。このスタンドは灰皿に水をあまり入れていないのでシケモクが集めやすいのだ。
歩きタバコをする人が少なくなったからポイ捨てが激減して路上で集めるのは効率が悪い。獲物のありかを熟知している。これはプロのホームレスである。
いまどきのホームレスは公共施設等で一般市民(ホームレスは一般市民じゃないの?)と共存できるように、こざっぱりとした格好をしていますからね。多摩川べりの彼らの居住区から少し離れた場所に出張されると見分けにくいのです。

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前回の原稿で勘違いをしていました。
吾妻ひでおが高い評価を得て再ブレイクしたのは「逃亡日記」ではなくて、2005年3月、イースト・プレス社発行の「失踪日記」である。
ある日、原稿をほっぽり出して失踪した。それが切っ掛けで1社だけ休むのも悪いし全部やめたほうがいさぎよいという理由で休養状態に入った。休筆中は朝、仕事場に行き酒を飲み寝て、夕方家に帰って酒を飲み寝た。
鬱と不安と妄想が襲いかかって死にたくなった。それから取材旅行に出かけるという名目のホームレス生活に入ってしまった。とき、11月の寒い頃。

ホームレスの仕事の第一歩はタバコとアルコールと食料の確保である。シケモクを拾い、てんぷら油を飲んで満足し、野生の大根(もちろん畑のだ!)をナマでかじり、野生のキャベツを採取して、ビニール袋に入れて尻にしいて寝る。起きた時においしい漬物になっていた。他のホームレスが留守中に食物をかっぱらうという「人間としてやってはいけない最低の行為」にも手を染める。

石油缶を横に倒し上部に穴をあけてビール缶を置き、ごみ箱から拾ってきたうどんを魚の骨をダシにして煮る。水汲み場も2〜3確保した。食料を調達しやすいコンビニも見つけた。なんとなく生活が安定してきた。
こんな調子で団地の裏山にボロ毛布でくるまりながら「忍法木の葉隠れ」などといいながら隠れるように暮らして雪の正月を迎える。全面の雪でヘタにウロツクと足跡が残る。正月でゴミも出ない。シケモクは雪で全滅。感動的な正月である。

不審者として警察に引っ張られて家に連れ戻されて第一次ホームレス生活が終了。この時は吾妻崇拝の美少女趣味警官が色紙を持ってきて「漫画と、お言葉を書いてくれ」という。少女の絵の横になんて書くんだと問えば、警官は「夢」と書いてくれと答える。くっくっくっ。これが第一部の「夜を歩く」。

第二部「街を歩く」は、これも原稿を落として失踪、ホームレスになる。日課のタバコ拾い、コンビニ漁り、自動販売機の釣銭さぐりが終わるとホームレスはヒマだ。アルコールは飲み屋の空きビンから少しずつ一本の瓶に集めてウィスキー、焼酎、花梨酒、ジン、ワイン…、壮大なカクテルとなる。
だが、ビールだけは集めてはならない。持ち歩いてはならない。ネジ蓋付きの缶に入れても揺れによってブシューとなるから、これはその場で飲まなくちゃならない。

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みんなが働いているのをみると、ちょっと働いてみたくなった。うまい具合に東京ガスの孫請け配管会社に拾われて、(社長が若いのによい人で)台所・トイレ付のアパートを用意して5万円を前払いしてくれた。
肉体労働の仕事も落ち着いたころ、社長から「僅かながら日当も出るから」と薦められてガス工事人になるための研修を受ける。一緒に研修を受けるのは北杜夫が好きな文学おやじの岩田さん、共産主義国家を目指す元税理士の植下さん、謎の青年Aの3人。青年Aはコーヒー代を立て替えさせたまま、すぐやめた。
座学と実技の研修を受けているうちにガス配管工の面白さがわかってきた。なにを考えてるんだか。ププッ。

最高に笑ったのが次のエピソード。
親会社の東京ガスの社内報で漫画を募集していた。よせばいいのに「ガス屋のガス公」という漫画を応募して採用されて連載する。作者紹介とかで顔写真をとられてインタビューにも応じるが、誰も吾妻ひでおだとは気付かなかった。そして、そして、第三部は気が狂うような幻覚に見舞われて入院する「アル中病棟編」。みなまで書けぬ。第4部が漫画家とり・みきとの巻末対談。

この漫画、よくできています。吾妻ひでおが冒頭に「この漫画は人生をポジティブにみつめ、なるべくリアリズムを排除して描いています」と断ったとおり、これだけの話を素人のホームレスが、また重度のアルコール依存症患者が乗り切ったのだから苦しくないわけがない。情けなくて泣くこともあったそうだ。それはそれとして漫画としての完成度が高い。また、第1〜4部への本としての流れ、構成も計算されている。

漫画の世界で、これだけ不義理を働いた人が復活するってことはあったのだろうか? 驚異的な粘りである。単行本の帯に、菊池成孔(ミュージシャン、ボクはしらない人だが)が「面白くて面白くて泣く暇も震える暇もありません。足の丸い四等身で描かれた現代の新約聖書て事でどうでしょう。受難の煉獄ともいえる全編を覆う、強烈な生命力が軽妙ですらあります」と書いている。
よくはわからんが、そんな漫画である。

この後、角川書店から2006年7月に「うつうつひでお日記」が発刊され、次いで漫画と写真とインタビューで失踪の地を追体験する「逃亡日記」(日本文芸社、2007年1月発行)が上梓された。「うつうつひでお日記」は何の盛り上がりもない読書と抗うつ剤と貧乏の日々を日記風に描いた漫画である。それにしても版元が見事にバラバラじゃないか! 吾妻ひでおさん、各社に気を遣って苦労しているのだろうなあ。

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読書ブログとしては、本当は「うつうつ日記」を取り上げたかったのであるが、失踪話がおもしろいので、ついサービスをしていたら長くなってしまった。この人、図書館で本を借りて一日2冊くらい読んでいる読書家なのである。

例えば8月2日の日記。
何もせず読書。辻仁成の「刀」あんまり評判が悪いので読んでみたら普通だった。ただ無駄に長い…。

ん? ボクのことを言っているんじゃないだろうな? 吾妻さん。
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私はここよ吊り橋ぢやない

2011/05/30 01:54
吾妻ひでお、一回お休みです。
河野裕子のことを書きたくなった。

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新潮社のPR誌「波」で永田和宏の「河野裕子と私−歌と闘病の十年」の連載が始まった。
ボク、河野裕子、すきですねん。
第1回のタイトル「私はここよ吊り橋ぢやない」は「何といふ顔をしてわれを見るものか私はここよ吊り橋ぢやない」の短歌からとったものである。

永田は河野の車を運転して河野を京大病院に連れていく。河野は病院で検査を。永田はそのまま勤務先の京大再生医科学研究所の研究室に入る。
河野の診察を終えた後、医学部の教授はすぐさま、河野には内緒で永田に「奥さんは乳がんです。まだ決まったわけではありませんが…」と電話を入れる。永田はすでに覚悟をしていた。電話の後、「落ち着け、落ち着け」と思いながらも永田は次第に焦っていく自分がなさけない。

教授からの電話の後、河野から永田に電話があった。
元気な声で「いま、終わったから、そっちに車を取りに行く」と。

永田が門の前でキーを持って待っていると、向こうから河野がやってくる。河野はしっかりとした足取りでこちらに向かっているが、教授からの電話のせいもあって、はかなげである。
平静を保って「どうだった」と訊ねると、河野は「エコーで乳房に大きな影があり、脇の下のもまっ黒なのよ」と言う。永田はなんでこんな時に、そんな呑気に話ができるのかと、あきれる思いでもあった。

永田が後から知ったことなのだが、河野もすでに覚悟をしていた。永田の前で精いっぱい明るさを演技していた。永田には、その河野の心理がわからなかった。それに比べて、永田の努めて平静を保っていた態度は、河野にとってミエミエだったわけである。永田は嘘をつくのが下手で、すぐ顔に出るし腹芸が苦手である。

そんな状況のなかで
「何といふ顔をしてわれを見るものか私はここよ吊り橋ぢやない」の短歌が生まれているわけである。
おそらく、永田は平静を保っているつもりでも、吊り橋をのぞきこむような切羽詰まった顔をしていたのだろう。河野は、その表情を正確にとらえていた。

んでも、すごいねえ。
…私はここよ吊り橋ぢやない…
ここで「吊り橋ぢやない」を持ってくるかあ。
この反射神経というのか、言葉に対する感覚というのか。

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河野裕子の若い頃の作品で
逆立ちしておまへがおれを眺めてた、とか
ブラウスの中まで明るき初夏の陽に、とか
たとへば君、ガサッと落葉すくふやうに、とか、
魅力的なフレーズがたくさんあるが、なんというのかなあ、この人の瞬発力みたいなものは昔もいまも変わっていない。

この連載が楽しみである。

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